2026.04.28
松永エリック・匡史インタビュー【前編】
アイドルのバックバンドでプロミュージシャン、米国の名門音大からSE、経営コンサルを経て大学教授になった破天荒人生
世界を大きく変えつつあるAI技術。我々オヤジはどう向き合い、付き合って行けばよいのか? そのヒントとなる新連載開始にあたって指南役の松永エリック・匡史さんにインタビュー。ドラマティックで破天荒な人生を語っていただきました。
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文/安井桃子 写真/トヨダリョウ 編集/森本 泉(Web LEON)

加速度的な進歩で世の中を大きく変えつつあるAI技術。現代に生きている限り、生活のすべての面で影響を受けずにはいられないAIについて、イケてるオヤジはどう立ち向かえばよいのか? 何をどこまで知ればよいのか? その指針となる「AIとの付き合い方」をテーマとした連載が5月から本サイトで始まります。指南役は青山学院大学・地球社会共生学部学部長・教授の松永エリック・匡史さんです。
連載開始前に、まずはエリック先生がどんな背景をもった方なのか皆さんに知っていただきたく、お話を伺ってきました。エリック先生、実はかなりユニークな経歴をおもちです。ドミニカ共和国で幼少期を過ごし、10代でプロのギタリストに。ボストンのバークリー音楽学校に進学するも、なぜかシステムエンジニアになり、ネットワークエンジニアとしてニューヨークに勤務、さらに大手外資系コンサルティング会社で役員を務めた後に大学教授に就任── 。インタビュー前編では、経営コンサルタントになるまでの、その破天荒な履歴書を紐解きます。
学ぶなら一流からビジネスと人生の鉄則
── なぜドミニカ共和国での幼少期を過ごしていたのでしょうか。またその暮らしはどんなものだったのでしょうか。
松永エリック・匡史さん(以下、エリック) 父の仕事の関係で生まれてすぐにドミニカ共和国へ行きました。当時の海外駐在員というのは、現地で人脈をつくることも重要な仕事としていたので、毎晩父と母はパーティーに出かけるんです。僕も早い時間のパーティーには社交の仕事をサポートするために着いて行きましたので、物心ついた頃には社交ダンスが踊れていました。南米では常にどこでも音楽がかかっていて、自然と音楽とダンスには囲まれていた幼少期だったと思います。
あとは、みんな積極的で情熱的なので、僕も10歳にして大人の女性に「綺麗ですね」なんて声をかける、ませた子になりました(笑)。貧困格差や人種間で差別というものがあることを体験したことも、その後の人生に大きな影響を及ぼしました。
── 日本にはいつ帰国されたのですか?
エリック 小学校6年生の頃に日本に帰ってきて、吉祥寺の小学校に転入しました。そもそも転校生ということで目立ちましたし、しかも南米のノリでベラベラ喋る子でしたので、友達もたくさんできて、すぐに馴染むことができました。

── 中3でプロギタリストとして活動を始めたそうですが、そのきっかけはなんだったのでしょうか。
エリック まずギターとの出会いは、 友達のお兄ちゃんに教えてもらったKISSを聴いて「こんなカッコいい音楽があるのか」と知ったのが最初です。そこから、レッド・ツェッペリン、 ディープ・パープル、ホワイトスネイク、そしてジャーニーというアメリカンロックのバンドにも夢中になりました。YMOも中1からハマって、 自然と「自分も本格的に音楽をやりたい」と思うように。
それまでギターにはあまり興味がなくキーボードやシンセサイザーにハマっていたのですが、大ファンだったジャーニーのキーボーディストであるジョナサン・ケインが、たまにギターを弾く姿に憧れ、ギターを弾いてみたいと思うようになりました。そこで、ギターを上手くなるには「学ぶなら一流から学ぶのが近道」と、当時YMOのサポートをやられていたギタリストの渡辺香津美さんのところへ押しかけて「ギター教えてください!」とお願いしました。無謀ですが、今思えば「学ぶなら一流から」というのは僕のビジネスの鉄則でもあるんですよね。
── いきなり中学生が、プロのところへ押しかけたんですか!?
エリック 『ギター・マガジン』を書店で立ち読みして、香津美さんが演奏される会場を調べて新宿PIT INNの出入り口で待ち伏せ。そんな中学生あまりいないでしょうから、香津美さんも面白がって、後日家に招いてくださったんです。今思えば信じられないことですよね。それなのに僕はギターも持ってないし、ドレミも知らない。日本を代表するギタリストである香津美さんにギターを貸していただき、ドレミから習ったなんて、日本一贅沢な中学生でした。
── (笑)。そこから腕を磨かれるのですね。
エリック 何度か香津美さんに指南していただいたのを入り口に、1年くらいである程度弾けるようになりました。もともとピアノは弾けましたし、音楽の運動神経みたいなものはあったんだと思います。ライブハウスにも出入りするようになっていた中3の時に、あるバックバンドのギタリストの代わりにテレビで演奏しないかと。本来のギタリストが風邪をひいたとかで代わりに出たのが「8時だョ!全員集合」のオープニングでアイドルのバックバンドとしての演奏だったんです。プロとしてお金をもらったのはそれが最初でした。そこからバックバンドだけではなく、色々な音楽の仕事が来るようになりました。
── 中学生ですよね? 学校に行きながら仕事をしていたのですか?
エリック 当時は労働基準法なんてあってないようなもので、中学生でも夜中まで仕事なんてことが多かったんです。だから学校はサボりがちでよく怒られていました。両親は教育に関しては厳しく、音楽にのめり込む僕を快く思っていなかったようなので、せめてこれ以上怒られないようにと、勉強だけは言われなくても頑張っていました。
── YMOやハードロックに憧れながらも、アイドルのバックミュージシャンだとだいぶ路線が違いますよね?
エリック そうなんです! でも当時から、お金をいただいた時点でプロですから、ご依頼された仕事をこなし、期待以上の価値を提供しなければいけないと考えていたので、そこにジレンマはありませんでした。目の前の人を喜ばせるにはどうしたらいいのか考えて動く、それは音楽家でもエンジニアでも、コンサルタントでも大学教授でも一緒。異業種を転々としているように見える僕のキャリアでもそこは一貫していると思っています。目の前の人を喜ばせることが大好きなんです。
それに当時の先輩ミュージシャンの演奏レベルはとんでもなく高く、素晴らしい才能の方ばかりで、毎日その技をどう盗もうか、毎日必死でした。僕は好きなことはとことんやるタイプなんです。同時に興味のないことはまったくやらないしできないので、だいぶ極端なのですが(笑)。

自分には到達できない世界があるのだと、清々しいほどに理解した
── その後バークリー音楽大学に進学されます。どういった経緯でこの進路を選ぶことになったのでしょうか。
エリック 坂本龍一さんに憧れていたので、本当は坂本さんが卒業された東京藝術大学に行きたかったんです。両親は今で言う学歴厨だったので、「藝大なら文句ないだろう」という魂胆もありました。けれど結局受からず、国立音楽大学に一瞬入り、その間にバークリー音楽大学を受けて、渡米したんです。
── 世界最高の音楽大学とも言われるバークリーに受かってしまうのも凄いですが、卒業したらまた日本でギタリストとしての活動に戻るつもりだったのでしょうか?
エリック いえ、日本の芸能界に戻る気はまったくありませんでした。高校生の頃に、バラエティ番組で演奏していて、ドッキリ企画で出演者がバックバンドごと泥沼に落とされる、ということがあったんです。僕らは落とされることをまったく知らなかったので、衣装も楽器も私物でした。すべて泥でダメにされて、「なんでこんなことやっているんだろう」って思ってしまいまして。アメリカに行くなら、世界の音楽シーンで一番をとろう、そういう気持ちでした。
── バークリーではどんな日々を過ごしたのでしょうか。
エリック 極端な話なのですが僕はバークリーに行って、音楽を辞めることを決断しました。ある日、学校の講師室からものすごいギターの音がしたんです。うまい人はそこかしこにいるのですが、その音とも全然違う。講師室を覗いてみたら、なんとエディ・ヴァン・ヘイレンが弾いていたんです! しかも衝撃的だったのが、その時弾いていたギターが「フェルナンデス・ZO-3」、通称「ゾウさん」と呼ばれる、アンプ内蔵の小さいおもちゃみたいなギターなんです。
僕の記憶ではこの「ZO-3」には音を歪ませる機能はなかったはずなのに、彼の演奏はものすごく歪んで聞こえる。なんだこれはと。これが世界なのかと。僕は一番になりたかった、そこそこでは嫌だった。でもこんな人がゴロゴロいるなら一番にはなれない、なら辞めようと。
── 後ろ髪惹かれる思いはなかったのですか?
エリック なかったです。もうひとつ辞めることを決断させてくれた出来事があるんです。元ディープ・パープルのデイヴィッド・カヴァデールがギタリストのオーディションをひっそりと行っていまして、そこに参加させてもらったことがあったのです。とにかくその参加者はレベルが段違いで、とんでもなくうまかった。僕はホワイトスネイクの曲は練習し尽くしたし完璧に弾けている自信はあったのですが、他のミュージシャンの演奏はリフ一小節で、もう格の違いが歴然でした。
この時も「世界レベルってこういうことなんだ」と実感しました。オーディションでは憧れのデイヴィッド・カヴァデールと演奏ができたし、そこで彼に“Wonderful Moment”と耳元で囁かれた瞬間に、自分にはとうてい到達できない世界があるのだと、清々しいほどに理解できました。
帰国後は、音楽以外で自分にできることを探したのですが、 英語くらいしか見つからなく、試験が受かれば就職できそうな高校の英語教師を目指し大学に入り直すのですが、様々なご縁で、卒業後は結局システムエンジニアになりました。
── ここまでのキャリアで、システムエンジニアになる気配がまったくなかったのですが(笑)、いったいなぜ突然そうなったのでしょうか。
エリック その気配、まったくなかったですよね(笑)。その頃は’90年代初頭で、ちょうどコンピュータとITの波が一気に来たんです。JRは自動改札になり銀行はATMを導入するという革命が起きていた時期でした。けれど世間ではまだコンピュータやITがなんなのかわかっている人はほとんどいなく、人材がなかなか採用できなかったのでしょう。大手企業がシステムエンジニアを大量採用していましたのですが、ハードルは低かった。僕はそれをチャンスだと思ったんです。
音楽を辞めた自分に、なにが残っているのか。正直、なにもなかったこそ、その波に賭けてみたかった。結局、英語教師になるのはやめて日立に入社しました。プログラミングは0から学びましたけれど、わからないことがあるのが悔しくてとにかくがむしゃらに勉強。研修が終わってからは、日本銀行に派遣されて、銀行のシステムを管理する仕事に就きました。

── 日銀での常駐勤務ですか。かなり手練のエンジニアが行くような印象ですが、どんなお仕事をされたのでしょうか。
エリック 一応、当時のエンジニアの中では、大手銀行、さらに日銀のSEというのは花形だったので、僕自身もうれしかったんです。僕の仕事は日銀が使っているシステムを管理したり、新しいシステムを開発したりというものでした。クライアントが目の前にいるので、僕はとにかく「この人たちの不便を解消して、喜ばせたい」という思いでいっぱいでした。
当時の日銀のシステムを見学しに世界中から視察に来る方もいて、彼らの対応もしました。僕はネットワークスペシャリストという資格もとっていたので「ネットワークとコンピュータをつないだら面白い」と、銀行業務と関係ない話も彼らと話しているうちに「うちに来ないか」と視察に来ていたAT&Tに声をかけてもらったんです。
── AT&Tは、電話を開発したグラハム・ベルを前身としたアメリカ最大級の通信業者ですね。
エリック そうです。それこそ社内には知の結晶みたいな人がたくさんいるんです。C言語を開発した人までいて、お会いした時はすごく興奮しました。とはいえ、AT&Tもネットワーク屋です。僕がいくら「ネットワークとコンピュータをつないだら面白い」と主張しても、ビジネスにおいての必要性を具体的に提案できる場所がありませんでした。そこでAT&Tに戦略アウトソーシングのプロジェクトをコンサルしていたアンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)にいくことになったんです。
今いる環境を心地よく感じたらそれは次の世界に行く合図
── そこから経営コンサルタントとしてのキャリアが始まるのですね。けれどそれまで音楽家、エンジニアというまったく別のキャリアで、ビジネスの知見はどう磨かれたのでしょうか。また他に類を見ないエリックさんのキャリアはコンサルタントとしてどう活きましたか?
エリック まずはコンサルタントとなるには経営の勉強が必要だと考え青山学院大学の大学院に行き、そこで働きながらですが、みっちり学びました。音楽家もエンジニアもそうですが、自分のできることがどこまでかわかってくると、次の場所に行きたくなるのです。慣れてくればそれがコンフォータブルゾーンになっていくのですが、自分にとって心地いいと思った途端、それが次へ行く合図だと感じました。その度に、完全アウェイのまったく別の分野に挑戦してきたんだと思います。
だけどとにかくコンサル業界は、超高学歴な人ばかり。そのなかでも上澄のようなすごい優秀な人たちばかりで、どんなにつま先立ちしたって全然同じ背丈に届かないんです。最初はその差をとても苦しく感じていたのですが、自分にしかないものをと考えた時、それが元「ミュージシャン=アーティストである」ということでした。
音楽を奏でる時に考えていたことをビジネスでも活かせたら、きっと他の人と圧倒的に違う仕事ができる。そしてエンタテインメントの世界でももっとコンサルができることを見つけられるのではないかと。当時クライアントは製造業と金融が主役でしたが、そこにエンタメ&メディア業界のクライアントを担当する部署をつくったんです。

── 具体的にはどんなお仕事をされたのでしょうか。
エリック ゲームセンターをつくったり、映画のコンサルもしました。ゲームセンターの時は、銀行の時のシステムエンジニアとしての経験がかなり活きました。ゲームにおいても、誰かと繋がっているという「ネットワーキング」が昔から日本では大事にされてきましたから、パソコンゲームでも、その「つながり」部分を重要視してつくりました。これもエンジニアの時に考えていたことがかなり反映されたと思います。
── 映画公開の宣伝の仕掛けや、新たなエンタメの場をつくるなど、大手代理店がやりそうなことをされていたのですね。かなりクリエイティブなコンサルかなと。
エリック そうですね、クリエイティブで、かつ技術を使ったコンサルでないと意味がないと思っていました。映画のコンサルでは、海外のどの映画が日本人に刺さるのか、いろんな条件をデータ化し、自動的に「これが日本でウケる」と提案してくれるシステムもつくりました。
── 今でいう、AIのレコメンデーションのような機能ですね。
エリック そうです。ある動画配信プラットフォームの日本立ち上げの際もお仕事をさせてもらいましたが、当初レコメンデーションのデータが少なく、最終的に人間がつくっていた時期もありました。作業としては膨大なことですが、中途半端なデータからのセレクトより、人間のセレクトがウケることも実践で学びました。ですので、デジタル化することが目的ではなく、必要なら、あえて一部アナログを残すということも意識しながらシステムをつくることにしていたんです。日々様々な技術が生まれていきますから、それらを学びながら、どこにアナログをかけあわせていくべきなのか考えることも大事です。
後編に続きます。

● 松永エリック・匡史(まつなが・エリック・まさし)
1967年生まれ、東京都出身。青山学院大学・地球社会共生学部・学部長。15歳からギタリストとして活動、国立音楽大学で作曲、バークリー音楽大学でジャズを学ぶが、帰国し青山学院大学に入学。卒業後はシステムエンジニアとして日立ソリューションズに入社。アメリカのAT&Tソリューションズでネットワークアーキテクトとして活躍したのち、経営コンサルタントとして、アクセンチュア、野村総研、日本IBMに勤務。その後、デロイト トーマツではコンサルティングメディアセクターAPAC統括パートナー・執行役員に就任。2015年にはPwCコンサルティングデジタルサービス日本統括パートナー就任。2019年に青山学院大学地球社会共生学部の教授に就任。デジタルイノベーション、国際ビジネス、アーティスト思考などの科目を学生たちに教える。2021年に学部長就任。青山学院大学のブランディングコンサルティングもつとめる。著書に『直感・共感・官能のアーティスト思考』 『バリューのことだけ考えろ トップ1%コンサルタントの圧倒的な付加価値を出す思考法』など。
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