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2018.05.19

「元祖渋谷系の女王」、野宮真貴さんが語る昔の渋谷、いまの渋谷

「渋谷系」と呼ばれたムーブメントが時代を席巻していた90年代、その中心にいたピチカート・ファイヴの野宮真貴さん。当時の彼女にとって渋谷はどんな街だったのか、そして今、改めて渋谷に関わる活動を始めた理由とは?

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文/松永尚久

1990年代に一斉を風靡した「渋谷系」と呼ばれる音楽ムーブメント。そこからは、多数の才能溢れるミュージシャンが誕生し、注目を集め、今や世界的に高い評価を受けている存在もいます。ピチカート・ファイヴのメンバーとして活躍していた、野宮真貴さんもそのひとり。洗練されたセンスで、音楽はもちろん、映画、文学、ファッションなどあらゆる分野において、時代の最先端を発信する「元祖渋谷系の女王」として、今も大きな影響力をもっています。

そんな彼女が、最近になって再び「渋谷」と関わった活動をしていて話題に。なぜ、再び「渋谷」と向き合うことにしたのか? また未来の「渋谷」に何を伝えたいのか? 過去の出来事を振り返りつつ、語っていただきました。
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渋谷は新しいカルチャー次々に生み出している街だった

「私にとって『渋谷』は、渋谷駅から原宿駅につながるエリアです。子供の頃は、同い年の従姉妹がキディランドの裏に住んでいたので、お休みの日にはよく遊びに行っていました。70年代後半はお気に入りのお洋服を着て日曜日の歩行者天国を歩いたり、原宿セントラルアパート内の小さなブティックを見て回ったり、ロック喫茶でコーヒー1杯で何時間も時間をつぶしたり。アマチュアバンド時代は、ラフォーレ原宿MILK、古着屋の赤富士文化屋雑貨店で衣装やアクセサリーを調達していました。

ファイヤー通り、公園通り、表参道、雑貨屋、ヘアサロン、ピンクドラゴン原宿の同潤会アパート……。この時代の『渋谷』はファッション、アート、音楽など新しいものを次々に生み出している街でした。でも、大衆的なものばかりでなくて、ちょっと背伸びしないと行けない街という一面もありました。『渋谷』に来て、そこで遊ぶことで『おしゃれな大人』になっていくというような、通過儀礼の場所だったのかもしれません」
 
そう語る野宮さん。ミュージシャンなど、その後につながるクリエーションのベースもここで作られていった部分もあると言います。

「ナイロン100%」で戸川純ちゃんに初めて会った

「70年代後半、ニューウエーブ、テクノポップなど、いちばん新しい音楽とファッションは渋谷から発信されていました。その場所に身を置くことによって時代の空気感やトレンドを肌で感じていたので、無意識に影響は受けていたと思います。特に、渋谷のセンター街にあった伝説のニューウエーブ喫茶店(!?)ナイロン100%には、面白い人達が集まっていて、当時話題のバンドのライヴがありよく行っていました。戸川純ちゃんに初めて会ったのも、この店だったと思います」

他にも、ゲームセンター(当時は朝までやっていたので、打ち上げの後に立ち寄ると、プラスティックスの立花ハジメさんが100円玉を積み上げてゲームに興じているところに遭遇したことも)や、デートやライヴの打ち上げ、さらには映画監督のジム・ジャームッシュを連れていったことがあるという居酒屋など、渋谷にはさまざまな場所に思い出が散らばっているという野宮さん。

その後、1990年代にはピチカート・ファイヴのメンバーとして、多数のヒット曲を発表。特に「渋谷」界隈のあるレコード・CDショップなどからの熱烈な支持もあった影響か、いつからか彼らの音楽は「渋谷系」と呼ばれるようになり、大きなムーブメントとなっていきました。
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なんだか「渋谷系」って言われているみたいよ

「当時は『渋谷系』で括られることを嫌がるアーティストもいましたけど、『渋谷系』と言われる人たちのほとんどは特に意識もしていなかったと思います。私たちピチカート・ファイヴも『なんだか「渋谷系」って言われているみたいよ』という感じでした」

当時の「渋谷系」と呼ばれるミュージシャンは、音楽だけでなく、その他の部分に関しても強いこだわりがあったことが特徴です。

「『渋谷系』をあえて説明するならば、それは音楽ジャンルのことではなく、ひとつのカルチャーというかムーブメントでした。音楽はポップス、ロック、ジャズ、クラブ・ミュージックなどを要素としています。渋谷系と言われたミュージシャンたちは、音楽好きで、マニアックな一面があり、過去の音楽を再評価して紹介したり、自分たちの音作りに反映していました。そして音楽と同じくらい、ジャケットをはじめアートワークにもこだわっているもの特徴です。渋谷系の前後ではCDパッケージのデザインががらっと変わりました。ジャケットが今のようにスタイリッシュになったのは、渋谷系の大きな功績だと思います」
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90年代の渋谷は異なるさまざまのカルチャーを内包する街

ところで「渋谷系」と呼ばれることによって、作る音楽も意識的に変化した部分はあるのでしょうか?

「例えば、ピチカート・ファイヴの代表曲『東京は夜の七時』は、渋谷という言葉はでてこないものの、連想させるような描写があったりしますね。でも、むしろ渋谷というよりも『渋谷を含めた東京』を意識してアルバムやヴィジュアルを作っていました。NY、パリ、ロンドン、と並ぶような都市としての『東京=TOKYO』ですね。東京は、全世界のカルチャーが集まってる都市でもありますし、そんな東京のカルチャーを世界に向けて発信している自負がありました。実際にアメリカのレコード会社と契約して、ワールドツアーも行っていましたし」

その当時1990年代の渋谷は、野宮さんにはどう映っていましたか?

「印象に残っているのは、90年代の渋谷は『ギャル文化』とアニエス・ベーに代表されるの『フレンチカジュアル系』が共存していた街だったということ。それは音楽も同じで小室哲哉さんファミリーと渋谷系に分かれて、それぞれの人がそれぞれの好みで楽しんでいました。当時から渋谷は異なるさまざまなカルチャーを内包する街だったんですね」
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「ドゥ マゴ パリ」は当時から好きで、今もよく行きます

野宮さんが個人的に思い浮かぶ当時の「渋谷」のスポットはどこだったでしょう?

「大型レコード・CD店の(当時)名物バイヤーである太田浩さんが、『渋谷系』というネーミングを生み出したとも言われていますが、そこではピチカート・ファイヴのCD発売の時にプロモーションでファンを集めてさまざまなイベントを行っていました。公園通りの商業施設でピチカート・ファイヴの限定カフェを開いたり、こちらの提案が具体的な形になっていくのが楽しかった。

また、ピチカート・ファイヴの三代目ヴォーカルになって、初期の頃は自分でスタイリングをしていたのですが、意外にも道玄坂にある大型ファッション施設にNYやLA輸入の60s調ワンピースやアクセサリーを見つけることが出来たので重宝していました。そこで、当時人気ブランドのカリスマ店員だった森本容子さんなど、ギャル系とも繋がりができました。また、東急文化村にある本格的フレンチカフェ、ドゥ マゴ パリは当時から好きで、今でもよく行きます」

渋谷は多種多様な人種と文化が集まってくる街

多様な人々やカルチャーを発信して来た、1990年代の「渋谷」。そのエネルギーは、どこから生まれていたと思いますか?

「90年代の渋谷は、レコードショップや単館系の映画館もたくさんあって、またファッションの街でもあり、若者文化の発信地だったと思います。小室さんの音楽やギャル文化などといった大衆文化と、渋谷系やハイファッション、アートやサブカルチャーなど、本当にさまざま要素の文化が混じり合って、文化の坩堝のようにムーブメントを起こしていたのが渋谷でした。

渋谷は、スクランブル交差点に向けて谷のようになっているので、人が集まってくるという説もありますが、渋谷は他の街とくらべて多種多様な文化と人が集まってくる場所なんですね。長谷部健・現渋谷区長がおっしゃるように、世界一のダイバーシティが進んだ街なんだと思います」

そんな野宮さん、最近は『野宮真貴、渋谷系を歌う。』と題し、作品リリースやライヴ活動をされているのが話題です。
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渋谷系は当時の流行り音楽で終わらない素晴らしい楽曲が多い

「2012年のデビュー30周年の時に、セルフカバー・アルバム『30~Greatest Self Covers&More!!!』をリリースしました。ピチカート・ファイヴ時代の曲が中心だったのですが、20年以上経って歌ってみて、渋谷系と呼ばれている音楽は、当時の流行りの音楽ではなくて、やはり素晴らしい楽曲が多いということを改めて認識しました。本当に名曲が多いんです。バート・バカラック、ロジャー・ニコルズ、ミシェル・ルグラン、はっぴいえんど、ユーミン、大滝詠一さん、山下達郎さんなど……渋谷系のミュージシャンがリスペクトした自分たちのルーツ音楽ですね。

そこで、『野宮真貴、渋谷系を歌う。』と題して、渋谷系とそのルーツである彼らの過去の名曲を、21世紀の新しいスタンダード・ナンバーとして歌い継いでいくことが自分の歌手としての使命だと思ったのがきっかけです。『野宮真貴、渋谷系を歌う。』は、今年で6年目。毎年アルバムリリースとライヴを行っています。今年も秋にアルバムとライヴを予定していますので、楽しみにしてください」

また、音楽活動だけでなく、昨年は「第12回渋谷音楽祭Shibuya Music Scramble 2017」にキュレーターとして参加されるなど、さまざまな渋谷発信のイベントやプロジェクトにも関わっている印象です。

「元祖渋谷系の女王と言われるからには、渋谷にも恩返しをしたい気持ちもありました。渋谷は私の仕事のホームタウンですから。長谷部区長からオファーをいただき、渋谷区の基本構想の歌『You make SHIBUYA〜夢見る渋谷』をカジヒデキくんと作って歌いました。それ以来、長谷部区長と一緒にスクランブル交差点でのカウントダウン・イベント、盆踊り大会、渋谷音楽祭などやらせていただいています。あと箭内道彦さんが作った渋谷コミュニティーFM『渋谷のラジオ』にも参加させていただいています。ここでは渋谷区の商店街の人たちや渋谷に住む人、はたらく人と一緒に、私も生活者としてコミュニティーに参加しています」

最先端の渋谷と古き良き渋谷が共存するとうれしい

音楽を中心に再び「渋谷」と向き合ってみて、当時との違いを感じることはあるのでしょうか。

「音楽とファッションの街、若い世代が集まる街、それを受け入れる街という点では、渋谷はあまり変わっていないように思います。1990年代と2010年代で一番変わったのは、海外からの観光客が増えたことでしょうか」

今後は、2020年の東京五輪を控え、またそれ以降に向けて、さらなる進化を遂げていくはずの「渋谷」。今後、野宮さんはこの街とどんなケミストリーを起こしてくれるのかも楽しみなところです。

「再開発で新しく生まれ変わろうとしていますが、最先端の渋谷と、古き良き渋谷が共存するとうれしいです。人種も性別も年齢も越えて世界中の人たちが出逢う街。ダイバーシティ渋谷。スクランブル交差点はその象徴のような気がします。そして、それが世界中に発信され、パリ、ロンドン、NY、シブヤと言われる街になる日も近いと思います。また、若者だけでなく大人も楽しめる『成熟した街』に進化してほしいと思います。2020年の東京オリンピックなど、元祖渋谷系の女王として、新しい渋谷にこれからもずっと関われたらいいですね。開会式で歌えたら素敵です」

最後に。LEON読者に向けて、大人の渋谷の嗜みを聞いてみました。

「私が若い時、渋谷に集まる大人は本当にお洒落でした。若い人たちはそれを見て、それをお手本にして素敵な『おとな』になっていくものです。ですからお洒落で気品のある、でもどこか不良の要素を心に隠した『ちょい不良(ワル)オヤジ』は、渋谷に集まる若者たちの憧れの存在であって欲しいですね」
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● 野宮真貴(のみや・まき)

「ピチカート・ファイヴ」3 代目ヴォーカリストとして、90年代に一世を風靡した「渋谷系」ムーブメントを国内外で巻き起こし、音楽・ファッションアイコンとなる。 2010 年に「AMPP 認定メディカル・フィトテラピスト(植物療法士)」の資格を取得。2018年はデビュー37周年を迎え、音楽活動に加え、ファッションやヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍している。シリーズ5作目となるニューアルバム「野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。」、エッセイ第2弾本「おしゃれはほどほどでいい」(幻冬舎刊)、JINSとコラボした「美人リーディンググラス」が好評発売中。
オフィシャルHP/http:www.missmakinomiya.com

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