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2020.11.30

写真家・恩田義則が語る『LEON』の表紙誕生秘話

来年創刊20周年を迎える『LEON』にあって、前半の10年、120号に渡って表紙を撮影し続けたのが写真家の恩田義則だ。このほど、恩田と弟子たちによる写真展「ひびき」が開催される。

CREDIT :

写真/GENKI 文/秋山都

『LEON』は来る2021年に創刊20周年を迎える。そしてその表紙の男といえば、ご存知パンツェッタ・ジローラモ。2014年にはひとりのモデルが、途切れることなく1雑誌のカバーを飾り続けたとしてギネスの世界記録にも認定されているが、その前半の10年、つまり120号に渡って表紙を撮影し続けたフォトグラファー、恩田義則のことはご存知だろうか。
▲トレードマークのボルサリーノをかぶる恩田義則。
恩田義則は1948年、東京・吉祥寺生まれ。生家は「恩田写真商会」という写真館を営んでいた。都立国立高校から青山学院大学に進んだ恩田青年は、当時先端を行くVANジャケットに身を包んだアイビールック。「典型的なノンポリだった」と本人はいうが、時代はの学園紛争のまっただなか。大学はロックアウトされ、まともに通えなかったのだという。

授業の行われないキャンパスにあって、恩田が通っていたのは1年生から所属していた写真部の部室。当時、写真界では「コンポラ」と呼ばれるムーブメントが起きており、恩田青年もご多聞にもれず夢中になった。たとえばロバート・フランクによる日常の何気ないシーンなど、作者の心象を写し出す表現は、それまでのアンリ・カルティエ=ブレッソンなどによる“決定的な瞬間”を追究する手法とは異なる風景の切り取り方となる。「こんな表現もあるんだ」「写真ってかっこいい」……すっかりハマった恩田青年は、ハタチを迎えるころにはフォトグラファーになりたいと考えるようになった。

その当時、日本の写真界を牽引していたのは『カメラ毎日』の編集長であった山岸章二だった。多くの若手写真家を見出し、機会を与えていた山岸は『カメラ毎日』に掲載された恩田の写真を見て言った。

「きみ、ファッションやってみたら?」

山岸はその後、49歳で早逝しているため、その時、恩田のどこにファッション写真家としての芽を見出したのか、確かめるすべはない。しかし、その予言(?)が的中したことは、恩田のその後の仕事ぶりを見れば明らかだろう。
ファッション写真家といってもいまほど仕事のバリエーションがあるわけではなかった。70年代のファッション誌といえば、主要なもので『装苑』(文化出版局1936年創刊)、『服装』(婦人生活社1957年創刊)、先鋭的なところで『anan』(平凡出版1970年創刊)があったが、恩田は主に『装苑』や『amica』(文化出版局)で活動をスタート。のちに『anan』では伝説的なアートディレクター堀内誠一のもとでデザイナーを務めていた新谷雅弘とともに新しいファッションストーリーをいくつもいくつも生み出した。
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ふたりのジローとの出会い

まだ20代だった恩田にとって、もっとも刺激的だったのは石川次郎との出会いだった。のちに『トゥナイト2』などTVの深夜番組でアンカーを務めたので、一般にも広く知られた石川だが、このころは平凡出版(のちのマガジンハウス)で木滑良久とともに『POPEYE』創刊準備にあたっていた。

「まだ雑誌カルチャーの草創期ともいえる時代でした。次郎さんとの仕事もめちゃくちゃで、たとえばNY特集なら、とにかく現地へ飛ぶ。そしてモデルも雇わずに『マディソンアベニューで誰かかっこいいヤツ探して撮ってこいよ』と言われるの。しょうがないから当時流行っていたブティックに行って、着こなしのいいスタッフを探して撮影させてもらったりね。え、おしゃれスナップ? 読者モデル? そんな言葉がまだない時代に、同じことをやっていたんですね(笑)」

当時はファッション撮影のみならず、静物撮影や旅の風景、果てはレイアウト用の複写*まで担当し、一冊まるごとが恩田の撮影によるものだったこともある。1979年に生まれた恩田の次男で、いまはやはりフォトグラファーとして活躍するGENKIは父について、「あまり家にはいませんでした。ロケで長く留守にして、海外のお土産をたくさんスーツケースに詰めて帰ってくる。しばらくするとまたいなくなるんです」と語る。

*註

雑誌や広告など紙制作物のデザインをする際、デザイン紙に写真の複写を貼り付けたり、トレースしてアタリをつけた素材を貼り付けたりしてレイアウトしていた。筆者の記憶では90年前後まで行われていた。

▲過去に撮影した雑誌は膨大な数にのぼるため、ほとんど残していない。が、思い出に残る『OLIVE』と『EDGE』。後者はモノクロでファッションストーリーを撮影するなど、数々の先鋭的なエディトリアルを生み出していた。
思い出に残る1冊として恩田が持ってきてくれた『Olive』(1986年11月3日号)を見た。「リセエンヌには負けないよ!」と題された特集すべてが恩田による撮影だが、そのモデルの斬新なポージングや、フレッシュなヘアメイク(のちにフォトグラファーとして活躍する七種諭だった!)、そしてモノトーンでキュートなスタイリング(近田まりこ)はいまなお色あせない。ファッションという同時代性をもっとも大切にするジャンルでありながら、それ自体が不変の美を持ち、見るものをハッとさせるカットの数々は、残念ながらいまどのファッション誌をめくっても見つけられないクオリティの高さを見せつける。
▲実際にクルマを運転するパンツェッタ・ジローラモの姿を助手席からとらえた2010年10月号など思い出に残る『LEON』の表紙。
さて、恩田を語る上でもうひとつ欠かせないのがもちろん『LEON』。もうひとりのジローことパンツェッタ・ジローラモとの出会いである。2001年、当時の副編集長に『LEON』の表紙を撮影してもらえないか、とオファーされたとき、実はモデルの候補は数人いたのだという。でも、恩田が「彼がいいんじゃない」と指さしたのが、この“ジローさん”だった。

「まず当時の彼はまだ知名度がいまほどなくて、フレッシュなのがよかった。その辺のモデルより存在感があったし、イタリア人らしい色気も雑誌の方向性と合っていたでしょ。でも最初のころはまだ彼もたどたどしくてね、予期しない動きをしたりするから楽しかったなぁ。カバー撮影のために用意した状況の中でジローさんが素の状態で楽しんだり、撮られている事を忘れて、少し自分の世界に入ってる瞬間の表情がぼくをひきつけましたね」
恩田がよく口にするのは「予想以上のものがないと面白くない」「作り手の思惑以上のもの」という言葉だ。モデルにヘアメイク、スタイリングという要素をプラスして、きれいなフレームに嵌められたような写真も世の中には存在しているけれど、恩田の写真はそこにとどまらない。見るものの心に触れる何かを誕生させる、エモーショナルな写真だ。今風にいえば「エモい」となるのかもしれない。

「ぼくはそれを『ひびき』だと思っているのね。ぼくが捉えた一瞬の『ひびき』が見る人の心に新たな『ひびき』を生んでいく——ぼくが撮りたいのは、いま自分が人生を生きているという実感なんですが、それを見た人がいろいろ感じてくれたらいいな、と」

このほど、恩田と、恩田のアシスタントとして働き、いまはそれぞれフォトグラファーとして活躍する8人の弟子たちによるグループ写真展「ひびき」が開催される。そこで発表される作品群はまさに、恩田の写真世界の集大成となるだろう。どんな「ひびき」に出会えるのか、楽しみだ。(文中敬称略)

写真展「ひびき」

会場/目黒区美術館 区民ギャラリー地下1階
住所/東京都目黒区目黒2-4-36
電話/03-3714-1201
会期/2020年12月9日(水)~13日(日)
開館時間/10:00~18:00(最終入館は17:30、最終日は14:30まで)
インスタグラム@hibikiten

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