2018.05.18

アウディ 200 クアトロの悲劇!?

アウディのブランドイメージを一新させたクアトロ。その次期型の200クアトロ登場時、筆者は魅了されたが、思わぬ落とし穴が待ち受けていて…?

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

アウディから「クアトロ」と名付けられた4WDモデルが送り出されたのは1980年。僕はその時からアウディ・ファンになった。

それ以前のアウディにはまるで興味はなかった。地味で冴えないクルマといったイメージしかなかったし、事実そうだったと思う。

当時はメルセデスをして「50才代の成功者のクルマ」、BMWは「40才代の成功者のクルマ」と一般的には呼ばれていた。それに対して、アウディは「公務員のクルマ」と呼ばれていたのだから、当時の立ち位置がわかるというものだろう。

そんなアウディのポジションとイメージを短期間に激変させたのが、1980年に市場投入された、フルタイム4WDの「クアトロ」だった。

初のモデルは直列5気筒の過給エンジンとクアトロを組みあわせた2ドア・クーペ。それは格好よくて、速くて、未来的だった。

WRCを始め、モータースポーツの世界でもすぐ頭角を現し、間もなく圧倒的強さを見せつけるに至った。地味なアウディに、突然変異的にスーパースターが誕生したのだ。
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クアトロ・コンセプトはすぐ他モデルにも及んだ。83年には80クアトロ、84年には200クアトロがラインナップに加わった。

僕が初めてクアトロに触れたのは、サンプル輸入された80クアトロ。雨の箱根で、4輪がピタリと路面に張り付くようなコーナリングに、速さに、一発でKOされた。正式輸入が待てず強引にサンプルカーを譲ってもらった。

そんな80クアトロなのに、同棲生活は長くは続かなかった。理由は、200クアトロの登場だった。

洗練された空力的/未来的ルックスに惹きつけられたのだ。強烈に。

これもまた、サンプル車を譲ってもらった。なぜまたサンプル車だったかというと、5気筒過給エンジン、5速MT、クアトロのコンビネーションの最高性能モデルが、日本には輸入されそうになかったからだ。

モダンなルックスと上質なレザートリムの大型ラグジュアリー・サルーンを、スポーツカーのように乗るのって、最高に格好いいじゃないか。

そんなふうに思いながら、どこか自己陶酔状態に陥っていたような気もする。
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周りの評判はサッパリだった。当時の日本でのアウディ人気は低く、ブランドイメージも「公務員の…」をまだ脱してはいなかった。

「高いお金払ってなんでまたアウディなんか買うの!?」が、まあ大方の反応だった。

200クアトロを買った少し後に、北米でアウディの「急加速」問題が起こったこともまずかった。日本でもかなり大きく報道され、多くの人が知ることになった。

結局「欠陥車ではない」との答えが出たが、アウディの受けたダメージは大きかった。僕のダメージも大きかった。

「自動車ジャーナリストたるもの、欠陥車に乗ってちゃダメなんじゃない?」と目の前で言われたこともある。

大方の調査の流れはアウディから聞いていたので、僕は信じてはいたが、こうした周りの目はやはりきつい。

200クアトロのラジエターは電動ファンで冷却していたが、ファンノイズがけっこう大きかった。クルマを停めると、少し間を置いてブォーンと回り出す。

赤坂のケーキ屋の前に停めて降りたときのことだ。200クアトロの前を横切ろうとしていた人が、いきなり飛び退いた。かなりの勢いで。

電動ファンがいきなり ブォーンと回り出したので、反射的に「アウディ=急加速」と捉えてしまったのだ。

その人は、少し顔を赤くして僕にこう言った。
「アウディ、大丈夫なんですか!?」と。
僕は「驚かせてしまって申し訳ありません」とまず謝ってから、電動ファンの音のことと、急加速問題の経緯を話した。

とりあえず理解して頂けたように思ったのだが、最後に「失礼ですが、アウディのご関係者でいらっしゃいますか?」と問われた。
やっぱり半信半疑だったんだなぁとガッカリしたが、まあ、無理もなかったろう。
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200クアトロでいちばん大変だったのはそれを手放す時だった。買い叩かれるのは覚悟していたし、僕自身、かなり安い価格を提示したつもりだった。それでも買い手は見つからなかった。

そうとう困り果てていたとき、ふとひらめいたことがある。「クアトロは雪に強いから、北海道辺りならなんとか…」と。

たまたま、札幌ヤナセの支店長と知り合いだったので、すぐ電話した。神にもすがるような気持ちでの電話だったが、ひらめきは見事に的中した。

「すぐ芝浦ヤナセにクルマ持ち込んでおいてください。明日か明後日辺りまでにはいいお返事ができると思いますよ。値段は…」。それは予想金額を大幅に上回っていた。神の声のように聞こえた。いや、ほんとうに!

翌日電話があった。「売れました。札幌でメルセデスSクラスに乗っている運転好きの方が、冬の遊び用にちょうどいいからほしいそうです」とのことだった。

クルマにはずいぶん散財したし、大損させられたことも少なくない。でも「買い手なし」の恐怖を味わったのはこの時だけだ。

だいぶん後になって、アウディの本社役員にこの話をした。すると、「俺のところに持ってくれば、すぐ売ってやったのに!」と大笑いされた後、「そうだったなぁ。あの頃は最悪だった…」と急にしんみりしてしまった。

アウディ 200 クアトロはいろいろ大変だった。でも、今は、笑って話せる、自慢話にできる、聞く人も喜ぶ? いい想い出になっている。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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