文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
イラスト/溝呂木 陽
今回の話しは飛行機。クルマでもバイクでもない。たまにはいいだろう。
 
敗戦後、日本は航空機の運用を禁止されていたが、それが解除され日本航空が誕生したのは1951年。そして、翌52年、僕は生まれて初めて飛行機に乗った。中学1年の時だ。
毎日中学生新聞の「全国綴り方コンクール」で金賞を取り、ご褒美に飛行機での北海道旅行がプレゼントされた。快挙だった。
 

家族、親戚、友人、知人・・・周りには飛行機に乗った人はまだいなかった。そんなことで、綴り方コンクールの話しなどそっちのけ。「飛行機に乗る」話しばかりが盛り上がった。このプレゼントは、僕も有頂天になって飛び上がるほど嬉しかったはずだし、そうとう得意満面でもあったはずなのだが、なぜかそうした歓喜の感覚はまるで残っていない。ちょっと不思議な気がする。

 
古い話だが、日本航空「木星号」の事故を知っている人はいるだろうか。伊豆大島の三原山に墜落。37名全員が死亡した悲惨な事故だ。1952年4月に起きた。
で、僕が北海道に飛んだのは同じ年の夏。
木星号墜落から数ヶ月後だ。僕が不安だったのかどうかは覚えていないが、家族の頭の中には、きっと木星号事故がちらついていたに違いない。とても心配していたと思う。

羽田には家族全員と親戚と友達が見送りにきた。おそらく初めての羽田見物も兼ねて。
その時の写真はどこかへ消えてしまっているが、僕が飛行機のタラップで手を振っている写真は覚えている。白の半袖シャツ、カーキ色(たぶん)の半ズボン、白のコットンハット、白のソックス、白の運動靴という出で立ちだった。写真の僕は、「こんなこと何でもないよ!」みたいな、ちょっと突っ張った感じで手を振っていた。
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北海道は洞爺湖畔に泊まったが、景色の美しさはうっすら覚えているような気がする。
しかし、その後も何度か行っているので、後に重ね塗りされたものを思い浮かべているのかもしれない。それ以外の旅の記憶もない。

北海道の記憶だけではない。初めて乗った飛行機の印象も残っていない。白タンクに赤エンジン。ホンダ「スーパー・カブ F号」に、同じ12才で乗った時の興奮はハッキリ覚えているのに。僕には、飛行機に「乗せてもらう」より、原動機付き自転車を「自分で操る」方が刺激的なできごとだったのだろう。
 

ところで、大分後で知ったことだが、僕が初めて乗った飛行機は「マーチン2-0-2」。
三原山に墜落した木星号と同じ機材で、「事故多発の問題機材」だった。ウィキペディアからの引用だが、製造機数はわずか34機ながら、全損事故は13機に及んだという。

こんな飛行機が民間航空機として世界の空を飛んでいたとは、絶句するしかない。しかも、日本航空がスタートしたときの機材5機はみなマーチン2-0-2だったというのだ。
初めて乗ったのがこんな怖い飛行機だったことも、まあ、とりあえず自慢しておこう。

●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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