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2020.07.26

幻のクルマ日産「MID4」をご存知?

90年代、日産が掲げていた、「1990年代に世界一の走り実現する」という壮大なプロジェクトの中で開発された1台が「MID4」。モーターショーで大いに話題になった、幻のクルマ「MID4」とは?

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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第139回

「幻の日産MID4」は怖かった!?

「日産MID4」、、、そこそこのお歳のクルマ好きなら、覚えているかと思う。1985年のフランクフルトと東京モーターショーにコンセプトカーとして出展され、大きな話題を呼んだ。

80年代後半は好景気の最中、記憶に残るクルマが世に送り出されたが、「幻」に終わったクルマもあった。そんな中で僕の記憶にもっとも強く残る「幻の1台」が日産MID4。

MID4は、その名の示すとおり、コクピットの背後に3ℓ・V6を積み、センターデフにビスカスカップリングを組み合わせたフルタイム4WDのスポーツカー。

MID4には、タイプⅠとタイプⅡがあったが、まずはタイプⅠから話を進めてゆこう。

タイプⅠ、、僕には古典的に見えたし、強く惹かれるものもなかった。が、東京モーターショーでは大人気だった。日本からスーパースポーツカーが誕生するかもしれない、、、そんなワクワクした期待感の表れだろう。

スリーサイズは4150 ×1770×1200mm。全高が1200mmと低いのはさすがだが、1770mmの全幅には??マークが付いた。

タイプⅠの時点では、将来販売しようという意図はなかった。当時、日産は「901活動」なるものを行っており、いわばその意図/目的を集約して示すのがMID4の役割だった。

「901活動」は、以前にもご紹介したことがあるが、「1990年代に世界一の走り実現する」という壮大なプロジェクト。僕も参加したが、多くの、それも宝物級の思い出がある。

中でも、R32型スカイラインGT-Rは「超意欲作!」だった。その「動質」は日本の常識だけではなく、世界の常識をも覆すもので、旋回性能も高速安定性も異次元レベルだった。
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それをもっとも鮮明に示したのが、ニュールブルクリンクのタイム。当時は「9分を切れば一流のスポーツカー」とされたが、R32GT-Rは、初アタックで、いきなり8分24秒をたたき出した。

ついでに言えば、ニュールブルクリンク新人の僕が、2ラップ目に8分40秒を出したこと。これは「恐るべき!」と言っていいレベルの出来事である。

R32GT-Rほどのセンセーションはなかったが、同時期に出たP10型プリメーラも901活動が生んだ傑作。欧州市場をメインターゲットにしたFFのコンパクトセダンだが、とくに高速安定性は世界を驚かせた。

「901活動」は大きな成果を収めたが、そんな活動をシンボライズし、形にしてアピールしようとしたのがMID4だったということ。

そして、2年後の1987年。東京モーターショーの日産ブースに多くの観客を引き寄せたのがMID4 Ⅱ。タイプⅠでは??の付いた全幅もタイプⅡでは1860mmになり、ルックスもグンとモダンになり洗練されていた。

インテリアも同様に進化。市販化を見据えたものであることを伺わせたが、その背景にはポルシェ・959(1986年に市販)の存在があった。当時のグループBホモロゲーション・モデルは200台以上の生産が求められたが、人気は高く、最終的には283台生産されたようだ。

その内の1台を日産が所有。僕も栃木のテストコースで乗った。換えの効かない貴重な研究資材ということで追い込んだ走りは許されなかったが、貴重な経験になった。

高速になるほど路面に貼りつく感覚になり、いつもは神経を張り詰めるようなコーナリング速度でも、アッサリとクリアしてしまうことに驚いたものだ。そんなポルシェ・959の走りを体験した日産開発陣が熱く燃えただろうことは想像に難くない。
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959を追うのは無理としても、901活動に関わった日産技術陣の目標は「ポルシェに追いつき、ポルシェを超える」ことだったと思う。

901活動の場でも、参考車としてポルシェ・944ターボと928が用意された。とくに944ターボは、当時「世界のベストハンドリングカー」とされていたが、僕も異論はなかった。

しかし、R32GT-Rの開発が進むにつれて944ターボの存在感は薄れ、比較する意味は薄れていった。アウトバーンとニュールブルクリンクでの最終テストには944ターボも持ち込まれたが、アウトバーンでの200km/h 超領域での安定性チェックに「一応」参加はしたものの、すぐお役ご免になった。

MID4 Ⅱに話を戻そう。
MID4 Ⅰがミッドシップに積んだ3 ℓV6はターボなし。最高出力は230psに留まっていた。が、MID4 Ⅱはツインターボを装着。330psにまで最高出力は引き上げられた。

トランスミッションは5速MTで、縦置きに積まれたエンジンの前方に配置。ビスカスカップリングとセンターデフを組みあわせたフルタイム4WD方式はそのまま引き継がれた。

そんなMID4 Ⅱのステアリングを握る機会があった。場所は追浜にあるテストコースだが、メインコースではなく「サーキット路」。幅は狭く、エスケープゾーンもほとんどないに等しい。当時の試作レベルのクルマ、とくに高性能車を走らせるのにはけっこうタフなコースだった。

それでも、新しいクルマに乗る前はいつもそうだが、ワクワクしていた。ところが、走り出してすぐ、、、2~3のコーナーを走り抜けただけで、試乗車がまっとうな仕上がりではないことがわかった。

詳細は覚えていないが、リアの据わりが悪く、クルマ全体の挙動もつかみどころがない。とにかく「怖かった!」ことを覚えている。
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ミッドシップ4WDであれば、まずは「リアがしっかり踏ん張って、、、」という挙動/感覚を期待するわけだが、そんな期待は一瞬で消えた。

しかし、乗った以上、走り出した以上、できるだけ多くを掴み取らなければならない。それも、確か「数周」に制限された枠内で、だ。

そんなことで「恐怖と戦いながら」攻められるだけ攻めたのだが、2周目か3周目に大スピンをやらかした。

あっという間の出来事だった。リアがほんのわずか滑り出したことを察知した次の瞬間、MID4はクルリと回っていた。僕はまったくなにもできなかった。コース上に留まれたのは不幸中の幸いだったが、それも結果としてそうなっただけで、僕のコントロールが的確だったゆえではない。

「予期せぬ出来事!?」とはこういうことを指すのだろう。僕は基本的にスピンするような走り方はしない。ていねいに追い込んでゆき、わずかに滑り出した辺りでコントロールする。

だから、クルマを潰したこともない。スピンも、長いクルマ人生で2度だけ。1度はこのMID4でのスピン。もう一度はフェラーリ・308でのスピン。いずれも昔の話である。

ちなみに、追浜での試乗会が行われた時点では市販化も検討されていたようだが、特別なアナウンスもなくMID4は姿を消した。

その理由は定かではないが、ひとつはコストと販売価格の問題。もうひとつは、当時の日産の超過密だった開発スケジュールの中にMID4のような難しいクルマが入り込む余地はなかった、、、そんな辺りがいちばんの理由ではなかったか。

MID4はスッと現れて、スッと消えた。「幻」のようなクルマだった、、、が、そこに組み込まれるはずだった技術要素の多くは、R32GT-Rを始めとした、その後の日産車に受け継がれた。そんな見方をすれば、MID4は価値ある存在だったとも言える。僕はそう思いたい。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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