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2025.05.25

歴史に名を遺す名車が綺羅星のごとく誕生した1960年代の日本車事情とは?

筆者が自動車ジャーナリストの世界に足を踏み入れたのは1964年。日本車の生産台数が急激に伸びていったこの時代には歴史に遺るような名車が数多く誕生しました。なかでも特に筆者の印象に残ったクルマとは?

BY :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
CREDIT :

イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第258回

1960年代に誕生した日本の名車たち!

イラスト 溝呂木 陽 トヨタ 2000GT マツダ コスモ スポーツ いすゞベレット 1600GT
自工会の資料によると、1951年の日本車の生産台数は3万8490台。乗用車に限ると3611台にすぎなかった。

日割りにすると、乗用車の1日の生産台数は10台ほどということになる。つまり、ほとんどゼロに近い台数だったわけだ。

ちなみに、日野ルノーや日産オースチン、いすゞヒルマン等、海外メーカーのノックダウン生産車は、日本車の生産台数には含まれていない。

その乗用車数が、1955年になると20,268台、1960年には16万5094台、そして、1970年には、実に237万台にまで急成長を遂げたのだ。
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まさに「恐るべき急成長ぶり!」だったわけだが、僕が自動車ジャーナリストの世界に足を踏み入れたのは1964年。

つまり、この急成長期にピタリ合せたように自動車ジャーナリストの世界に入ったのだが、とてもラッキーなタイミングだった。

自動車雑誌はどんどん増え続け、クルマの記事は一般紙誌にまで「際限なく」といった勢いで広がっていった。

僕はまず自動車専門誌の編集部に入ったが、新人時代から多くのクルマに乗り、多くの記事を書いた。家に帰るのも、月の内の半分くらいは、夜中過ぎか朝方になった。

初めの内は「大変なところに入ってしまったな!」と、後悔の念が強かった。だが、だんだん面白くなり、楽しくなり、朝帰りも、数カ月後には苦にならなくなった。

この雑誌で鍛えられたことが、後にフリーランスになった時に非常に役に立ったことは、前にも書いた。
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多くの記事を書くためには、多くのクルマに乗るだけでなく、多くの人に会い、多くの話をすることにもなる。こうして、多くの人脈もできた。これが大きな財産になった。

こうして、僕の自動車ジャーナリスト人生は始まったのだが、日本の自動車業界の急発展と急成長は、当然、多くの新型車を生み、面白いクルマをも次々生み出した。

1964年には、高度成長のシンボルとも言える東京オリンピックが開催された。当時のわが家は千駄ヶ谷国立競技場の直近にあり、オリンピックの空気感を日々、直に感じることができたのは大切な思い出になっている。

とくに、開発の中心になった千駄ヶ谷から青山通りに至るエリアの道路整備/環境整備は大々的に行われ、それに伴って街の表情も大きく変わった。

そのど真ん中で生活していた僕は、当然、そんな変化に強く影響を受けた。新しくできたモダーンな店で買い物をし、外国の香りがプンプンするようなレストランで食事をした。
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1960年代はカラーテレビが急速に普及し、アメリカを中心にした海外のテレビドラマの放映も増えた。

若くカッコいい男2人が、シボレー コルベットで冒険の旅をする「ルート66」に夢中になり、LAのサンセット大通り77番地にある探偵事務所を舞台にした、華やかなサスペンスドラマ「サンセット77」も欠かさず見た。

そして、そこに登場するアメリカ車やヨーロッパ車に憧れ、テールフィン全盛期のデソートHT、MGA、MGB、アルファロメオ ジュリアスーパー等を、無理して次々買った。

話は横道に逸れたが、元に戻そう。

1960年代の日本は、敗戦の後遺症からも脱し、経済活動は急速に勢いを増していった。いわゆる「高度成長期」が始まったのだ。

自動車産業は、そんな日本のシンボルのような存在であり、その成長ぶりは「驚くべきもの」だった。
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となれば当然、後に名車と呼ばれるようになるクルマも、そして、世界を、自動車先進国を驚かせるようなクルマも次々と誕生した。

まずは「ホンダ スポーツ」だが、1963年10月に「S500」が発売された。だが、それからわずか3カ月後の1964年1月、「S600」にバージョンアップされた。

S600はDOHC+4連キャブレターで57ps/8500rpmを引き出していた。レッドラインは9500rpmとレーシングバイクのようだったが、スムースに気持ちよく回り切った。

9500rpmまで引っ張る快感は麻薬的とさえ言えるもので、50.9万円という買いやすい価格とも相まって、とくに若いスポーツカーファンの憧れの的になった。

その後、1966年1月に後継車となったS800とともに、「永遠の名車」として語り継がれるクルマである。
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1959年から1963年まで生産された日産の「初代310系ブルーバード」も僕は好きだった、オーソドックスながら、均整の取れたデザインは誰にでも好感をもたれた。

特に、途中から追加された2トーンカラーボディと、フロントにダブルウィッシュボーンサスペンションを採用したことによる、乗り心地の良さは、今でも印象に残っている。

1964年の第2回日本GPでの必勝を期して開発された「プリンス スカイラインGT」のレースでの活躍ぶりは知っての通りだが、特に、「トリプルウェーバーを組み込んだGT-B」は、クルマ好きを強く惹きつけた。

輸入スポーツ車を超えるほどの高い存在感と人気を獲得したクルマとして、永遠に語り継がれる日本の名車と言えるだろう。

小型ファミリーカー、スカイライン1500のホイールベースを強引に伸ばし、2000cc/6気筒を押し込む、、「櫻井眞一郎さんの勝利への執念!」を、そのまま映し込んだようなロングノーズの迫力/魅力はたまらなかった。
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GT-Bの後継車であり、DOHC 24バルブ、トリプルウェーバーの6気筒エンジンを積みこんだスカイラインGT-R、そして、GT-Rと同じエンジンを積んだ「フェアレディ Z432」もまた、当然、60年代の名車にリストアップしなければならない。

1964年、日本車で初めて「グランツーリスモ」を名乗った「いすゞベレット 1600GT」も忘れ難い。4輪独立懸架とともに、日本車初のディスクブレーキを採用したクルマ(スカイラインGTよりも発売は1カ月早かった)でもある。

美しいルックスと優れたハンドリング故に「日本のアルファロメオ」とも呼ばれたベレットGTは、今も高い人気を保っている。

1966年には、「トヨタ カローラ」と「日産サニー」が誕生。日本のモータリゼーションの底辺拡大に火をつける役目を果たした。

カローラは1100ccのエンジンを積み、サニーは1000cc。トヨタの「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーが大当たりし、カローラはサニーに勝った。
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ルックス的にも、贅肉の無い引き締まったサニーに対して、カローラは艶やかさとゆとりを感じさせ、「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーと相まって、より多くの人達の心を掴んだ。

1967年は「60年代の黄金期」ともいえる年で、トヨタ2000GT 、マツダ コスモ スポーツ 、トヨタ センチュリーといった、高性能な、あるいはラグジュアリーなクルマが次々誕生した。

「マツダ コスモ スポーツ」は、世界初のマルチローター ロータリーエンジン車で、低い2シーター クーペ ボディも美しかった。

箱根ターンパイクでのコスモ スポーツは、なんとも爽やかで速かった。当時の感覚では、、ちょっと大袈裟かもしれないが、「天国を疾っている!」といったイメージさえ浮かんだ。

「トヨタ センチュリー」に初めて乗った時は、なにか「厳かな気分」になり、しばらくは、あれこれチェックしようといった気分にはなれなかった。不思議な感覚だった。
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僕はセンチュリーが使われるであろう状況で走ると同時に、同行していただいたトヨタのエンジニアにも運転をお願いし、後席をもしっかり味わった。、、で、引き出したのは、「僕には遠い世界のクルマ」という答えだった。

1960年代の日本車で、世界でいちばん話題になったのは「トヨタ 2000GT」だろう。こんなグレードの高いスポーツカーが、日本で生まれたことに感激した。

僕は数台の2000GTに乗ったが、残念ながら期待した性能は発揮してくれなかった。初期モデルの性能/仕上がりには、かなりのバラツキがあったようだ。

雑誌で見かけた情報だが、クラシックカー オークションで、日本車史上最高の落札価格を持つのはトヨタ 2000GTで、253万8,000ドルだという。仮に1ドル/150円で換算すると3億8千万円を超えることになる。
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この数字が正確かどうかはわからないが、トヨタ 2000GTのクラシックカーとしての価値が、日本車史上でもっとも高い位置にあることは間違いない事実だろう。

1960年代の日本の名車を思いつくままにピックアップしてみたが、こうして振り返ってみると、1960年代が、日本車にとって大きな飛躍の時であったことを、改めて思い知らされる。
岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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