2020.06.07
デ・トマソが生んだチュバスコの数奇な運命
幻の1台に見る「マセラティ」栄枯盛衰の裏側
1990年の12月14日、マセラティの創立記念日にサプライズで発表された2シーターのミッドマウントスーパースポーツ「チュバスコ」。その価格がフェラーリ「F40」と並ぶとも喧伝されたこのクルマは、結局発売されることなく幻の一台となってしまった。その裏にあった知られざるドラマとは?
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文/越湖信一(PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表)

ダラーラ製CFRPセンターモノコックを採用し、600PSを発生する3リッターV6ツインターボエンジンをミッドマウントするという。

私はこの2月、マセラティ本社にてミーティングを行った際、開発部門にそのプロトタイプが3台ほど存在することを確認している。
このプロトタイプはウィンドシールドやドアなど、ボディの多くがアルファロメオ「4C」のコンポーネンツで偽装してあるから、その姿から完成モデルを想像することは無意味だ。
しかし、つい先頃までマセラティの本拠であるモデナのチーロ・メノッティ工場では、アルファロメオ「4C」のアッセンブルを行っていたから、MC20の開発と製造において、4Cのノウハウが大いに活用されることは間違いない。ちなみに、ティーザーとして発表されたMC20のオフィシャル写真は、あくまでもエンジニアリングテスト用のものである。
ボーラにメラク、ブーメラン、バルケッタ
フェラーリ傘下時代の2004年に、「エンツォ・フェラーリ」のコンペティションバージョンともいうべき「MC12」をダラーラ、イタルデザイン・ジウジアーロとのコラボレーションで開発し、限られた数量を販売した。

コンセプトモデルにはなるが、1971年にボーラをベースとした「ブーメラン」も発表され、それらは“スーパーカーブーム”の立役者にもなった。
デ・トマソのマネージメント時代に発表された、コンセプトモデルではあるが、「チュバスコ」、そしてチュバスコのアーキテクチャーを利用して作られたワンメイクレース用モデルの「バルケッタ」も忘れてはいけない。
今回は、1台の試作車(不動のモックアップ)が製作されただけで消えてしまった、幻のチュバスコに焦点を当ててみよう。
当時、アレッサンドロ・デ・トマソは、12月14日のマセラティの創立記念日にメディアや関係者を集め、ニューモデルを発表するのを常としていた。1990年の12月14日、そこには大きなサプライズが用意されていた。
アンベールされたのは、シャープなラインを持った2シーターのミッドマウントスーパースポーツ、チュバスコであった。

これでマセラティの将来も安泰かと思われたが、急激な生産規模の拡大により品質問題が発生し、あっという間に販売数量は急降下した。頼みの北米マーケットにおいてもリコールが多発し、1987年には撤退を余儀なくされた。
フォードとの共同事業であった「デ・トマソ パンテーラ・プロジェクト」をきっかけとして、アレッサンドロとリー・アイアコッカの間には深いつながりが誕生した。その絆は、アイアコッカがクライスラーのトップとなってからも健在で、当たり前のようにクライスラーはマセラティの重要な株主となっていた。

しかし、その戦略は思うに任せず、アイアコッカはマセラティとの関係を解消し、ランボルギーニを買収してしまった。
ハイパフォーマンスカーバブルの時代で
そこで、マセラティは方向転換を図った。北米マーケットを前提とした量産戦略から、ヨーロッパや当時、大きなシェアを持っていた日本などに特化し、ハイエンドモデルを少量生産する戦略へのシフトであった。
折しも当時は、ハイパフォーマンスカーバブル。フェラーリ「F40」の登場、ロマーノ・アルティオーリによるブガッティ復活など、マーケットには活気があった。その新しいマセラティの戦略の切り札として企画したのが、前年に発表した「シャマル」に続くチュバスコであったのだ。
チュバスコは全長4365mm×全幅2014mm×全高1124mmと低くワイドだ。独特な形状のリアホイールアーチを見るなら、これがマルチェロ・ガンディーニの手によるものであることは一目瞭然だ。

プレス資料によれば、ノーズに備えられた3つのエアダクトからリアのディフューザーへと効率的にエアを流すことにより、良好な空力特性を獲得し、同時にエンジンコンパートメントの冷却を効率的に行うとある。果たして、どの程度の風洞テストを行ったのかは不明であるが、ガンディーニのハイパフォーマンスカー開発ノウハウが生かされていることは、間違いない。
エンジンは、シャマルと同じV8 3.2リッターツインターボを430bhp/6500rpmへとチューンしたもので、ポテンシャルは相当高いものだった。さらに単にパフォーマンスを追求するだけでなく、ラグジュアリースポーツとしての快適性の追求も謳われていた。
アレッサンドロの理想を形にしたシャーシ
そう、まさにチュバスコに採用されたシャーシこそ、コーリン・チャップマンお得意のバックボーンフレームであった。

アレッサンドロは「ハイパワーエンジンを冷却するための十分なエアフローを確保したうえでコンパクトかつ軽量なモデルに仕上げるためには、バックボーンフレームが最適であった」と語っている。
モデナのサプライヤーと共同開発した軽合金製のシャーシには、前:プッシュロッド、後:プルロッドのサスペンションが装着され、アレッサンドロはF1マシンさながらの理想的な設計であるとアピールした。
つまり、チュバスコはマセラティのヒストリーの中から生まれたモデルではなく、アレッサンドロの理想とするスポーツカー像から生まれたものであった。
このチュバスコは450台の限定生産モデルとして、1992年からデリバリーが開始されると発表された。価格は発表されなかったが、F40と同レベルと言われていた。
では、このチュバスコはなぜ、1台のモックアップが製作されただけでお蔵入りとなってしまったのだろうか。
巷では、株主となったフィアットが同じく傘下にあるフェラーリとの競合を嫌い、プロジェクトの承認をしなかったと語られている。
たしかにフィアットグループ入りしたマセラティは、今までのようにアレッサンドロの一声ですべてが動くという環境でなくなっていたのは事実だ。しかし、それはある一面からの見方にすぎない。
当時、マセラティは各国のディーラーへとチュバスコの販売数量の打診が行われたのだが、その反応は芳しくなかったという。
プロジェクト中止の真相は日本にあった?
しかし、アレッサンドロは日本という切り札があると楽観していたようである。バブル景気の日本は、北米マーケットなき後、トップを争うほどの販売数量を記録していたし、高額な限定モデルに人気が集まっていたことも、彼はよく理解していたのだ。
だが実際には、少し遅かった。日本は“総量規制”の通達とともに、バブル崩壊へとまっしぐらであった。これが、プロジェクト中止の真相である。

しかし、そんな彼の商売人としての顔にウラには、何とかマセラティのスポーツカーを作り続けたいという熱い思いがあったことも事実だ。
素晴らしき幻のチュバスコとアレッサンドロ・デ・トマソの情熱。素晴らしきイタリアンコネクションに乾杯。