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2019.12.22

今となっては嫌いな人はいないハワイ。55年前のホノルル空港とは?

世界中からさまざまな人が訪れるハワイ=ホノルル。乗り入れが多い分、空港も発展を遂げてきた。日本政府が海外渡航を自由化した1964年に降り立った55年前のホノルル空港とは?

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第124回

55年前のホノルル空港

現在のホノルル空港は、世界中から来る旅行客を暖かく迎え/送り出す十分な規模と設備を持っている。

多くの人は、とくになんの深い想いもなく、ホノルル空港に降りたっているだろう。

しかし、1964年にホノルル空港を初体験している僕は、ときどきふと55年前を思い出し、感慨に耽ってしまう。

1964年。僕の初の海外旅行は東回りの世界一周。その際、初めて海外の地を踏んだのがホノルル空港だった。

1964年4月、日本政府は、観光目的の海外渡航を自由化したが、たしかその2ヶ月後くらいに日本を出たと記憶している。

飛行機はJAL。機材は「名機」と呼ばれたダグラス DC-6B。大型長距離用機材としては最後のプロペラ機だった。

すでにジェット機、DC-8が主力になり、プロペラのDC-6Bはどんどんお役ご免になっていた時期。なので、運悪く?DC-6Bに当たったということになるのだが、JALのスタッフからはこんな言葉をかけられた。

「太平洋航路はもうすぐすべてジェット機に変わります。最後のプロペラ機での太平洋横断、素晴らしい思い出になりますよ!」と。

そう言われて、とりあえず頷きはしたものの、僕はやはり最新のジェット機に乗りたかった。

でも、今では、確かに忘れられない思い出になっている。「ダグラスDC-6B、最後のプロペラ機で太平洋を横断したんだ!」と、ちょっと得意げにも言える。

今は東京とホノルル間の飛行時間は往路7時間だが、DC-6Bではもっとずーっと長かった。5~6時間、いや、もっと長かったかもしれない。

でも、「長かった」とか「疲れた」といった記憶はまったくない。知り合いのツテで窓側の席をとってもらったが、太平洋の海と空を飽きずに見続けていたのだと思う。

そして、ハワイ=ホノルル空港に着いた。憧れのハワイの地を踏んだのだ。
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、、と、ここまでの話しでは、僕がハワイに立ち寄って、ハワイを楽しんだように思うだろう、、が、残念ながらそうではない。

ホノルル空港には本土便への乗り継ぎのために降りて、2~3時間を空港内で過ごしただけ。僕の最初の目的地はLAだった。

DC-6BにはLAまで(約9000km) 直行する航続距離(約7400km ) はなかった。だから、ホノルルで給油ストップを行うか、別便に乗り継ぐしかない。そんなことで、僕は、図らずも「ハワイの地を踏む!」という素晴らしいボーナスを手にすることになった。


今回の話しの主題はここから始まる。

ハワイの空は蒼く高く、陽射しは強かった。カラッとした爽やかな微風がなんとも心地よかった。想像していたとおりだった。

戦後「憧れのハワイ航路」という唄が大ヒットした。その歌詞を思いだした。

せっかくだから、歌詞をご紹介しておこう。
  晴れた空 そよぐ風
  港出船の ドラの音愉し
  別れテープを 笑顔で切れば
  希望(のぞみ)はてない 遙かな潮路
  ああ 憧れの ハワイ航路

今となってはただただ照れくさい歌詞だが、この唄が世に出た1948年頃のハワイへは船でしか行けなかった。もちろん、多くの日本人にとってのハワイは、憧れの、夢の地だった。

ちなみに、JALがハワイ航路を開通したのは1954年。それ以前、憧れのハワイは、まさに「遙かな潮路」の先にあったのだ。

「晴れた空、そよぐ風」は想像通りだったが、想像とまったく違ったのは空港の佇まい。

出入国管理や税関、、諸々の手続き等を行う建物はあったが、ターミナルビルと呼ぶにはあまりにも小さく質素なものでしかなかった。
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それよりなにより驚いたのは出発ゲート。いや、ゲートと呼ぶのは正しくない。そう、「出発小屋」とでも呼べばいいだろうか。

広大な敷地のあちこちにポツンポツンと小さな小屋が建っている。出発ゲートが決まったらその小屋にバスで移動する。

小屋は質素な作りで窓も小さい。もはや定かではないが、小屋の中には木造りのベンチがあったように思う。

のどかといえばこの上なくのどかだし、ハワイらしいといえばこの上なくハワイらしいのかもしれない。でも、やはり驚いた。

すでに話したとおり、僕はホノルルでLA行きの別便に乗り継いだのだが、搭乗を待つ数時間の間待たされた場所にもまた驚いた。

そこは、主要な手続きや事務を行う上記の建物の一角だったが、ただのガランとした広間で、外部との仕切りはない。空港前の道路との境に細いロープが一本張ってはあったが、なんの役にも立たない。

海外が初めての僕には、そのロープが太く重いものに見えたが、着く人を迎えに来たのだろう人たちは平気でロープの中に入ってくる。

荷物検査を受け、イミグレーションを通った後の隔離されたエリアに、誰もが平気で出入りできるということだ。

乗り継ぎなので、荷物は別便に積み替えられるわけだが、その荷物はというと、そんな広間の床に無雑作に積み上げられているだけ。

海外初心者の僕はそれだけでも十分ビビッた。「荷物が盗まれたら大変!」と、荷物置き場から離れられなかった。

むろん問題なく乗り継ぎもできたし、荷物も無事LAでピックアップできた。が、55年前、初めてのホノルル空港は驚きの連続だった。
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ホノルルは1960年代半ば辺りから急速な発展を遂げた。ワイキキには次々と新しい大型ホテルが開業して、海外からの観光客は増加の一途を辿った。

となれば玄関口のホノルル空港もどんどん変化するのは当然。

それだけに、乗り継ぎの間の数時間だけでも、巨大観光地化する前の、素朴で長閑なホノルル空港を体験できたのはラッキーだった。

僕はハワイが大好き。家内も同様。だから、ハワイにはよく行く。最近は11月に行ったが、来年6月に行くことをすでに決めている。

歳を重ねて、家内がヨーロッパやアメリカ本土を遠く感じるようになり始めた昨今は、とくに「ハワイばかり」状態になり始めている。

でも、「晴れた空、そよぐ風!」はいくらくり返し味わっても飽きることがない。海を前にしたホテルのテラスで、デッキチェアに寄りかかって時を過ごす、、それだけでハッピーなのだから。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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