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2019.07.07

第2回日本GP、スカイラインGTvsポルシェ904の伝説のバトルを知っていますか?

1964年5月2日、第2回日本GPが開催された。そこで登場したポルシェ904は人々を熱狂させたが、そのレース中、日本の主力車スカイラインGTが思わぬ奮闘をした!? その顛末とは?

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第102回

第2回日本GP、、あの伝説のポルシェ904に乗った! 

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1964年5月2日は、日本のモータリゼーションの大きな転機になった。第2回日本GPが開催された日だ。

快晴の鈴鹿は満員の観客で埋め尽くされ、すごい熱気に包まれていた。僕も兄と一緒にメインスタンドにいた。

前年の第1回日本GP も盛り上がりはしたが、「とりあえずレースをやりました」といったレベルだった。

ワークスカーとはいっても、中身は「市販車プラス」レベル。そんなクルマをドライブするワークスドライバーもまた「腕自慢のアマチュア」レベルが多かった。

メーカー傘下のクラブからの選出が多かったが、「ええっ、あの人が、、!?」と首を傾げざるをえない選出もあった。

日産とホンダにはプロがいたが、それも、二輪からの転向やギャンブルレース出身が多く、他には、メーカー実験部に所属する、いわゆるテストドライバーが多かった。
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ちなみに、日本に本格的サーキットができたのは1962年の鈴鹿が最初。その後、1965年に船橋サーキット(1967年に閉鎖)と富士スピードウェイが開業するまで「鈴鹿だけ」の状態が続いた。

第1回日本GPを契機にモータースポーツ熱は盛り上がったが、「鈴鹿しかない」ためレース数は限られた。その代わりジムカーナやヒルクライムが多く行われるようになった。

とくにジムカーナは、普段使いのクルマでも気軽に参加できるイベントとして、多くの参加者を集め、日本モータースポーツの底辺拡大に貢献した。

第2回日本GPに話を戻すが、マシンもドライバーもレベルはグンと上がった。各メーカーの鈴鹿占有使用は飛躍的に伸び、マシン開発とドライバー訓練に大きな力を注ぐようになった。第1回日本GP後、「レースがもたらす宣伝効果」を強く実感したからだろう。

1964 年5月2日、多くのメーカーが1年間努力を重ねた結果は、鈴鹿を埋め尽くした「観客の熱狂!」という形で表れた。

多くのクラスで熱いバトルが繰り広げられた。
第1回の「とりあえずレース」は、「本格的レース」へと完全に脱皮していた。

そんな中でも、鈴鹿を興奮のるつぼに巻き込み、今も熱く語り継がれるバトルがあった。
それは、GT-Ⅱ (1000~2000cc)レースの7〜8ラップ目に起きた。ポルシェ904(以下904)とスカイラインGTのバトルだ。

904はポルシェがレース専用車として開発した、GT-Ⅱクラスの世界最強マシン。
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対するスカイラインGTは、1500cc/4気筒エンジンのファミリーセダンがベース。そのホイールベースを200mm伸ばし、2000ccの6気筒エンジンを強引に押し込んだ「ヤッツケ改造マシン」だった。

後に、開発者の桜井真一郎は「レース中にバラバラになるんじゃないか心配だった」と笑いながら話したが、単なるジョークとは思えなかった。バラバラは大げさにしても、多くの不安を抱えたままの本番突入だったのは間違いない。

904に関しては、「スカイラインに勝たせるわけにはゆかないトヨタが放った刺客」、といった話しもあるが、そんなことはどうでもいい。

ちなみに、904を駆った式場荘吉は、904を個人で注文しても不思議のない財力の持ち主だった。

日本GPにどんな流れで904が参戦したかの謎解きは、僕には興味はなかった。それより、904が鈴鹿をどう走るのか、1台切りの904が、圧倒的多勢のスカイラインGTとどう戦うのか、、興味はそれだけだった。

904は予選でクラッシュ。フロントにけっこうなダメージを負い決勝出場が危ぶまれた。

それだけに決勝当日、904がピットに姿を現したときは嬉しかった。ただし、ガムテープをベタベタ貼った姿は痛々しく、「応急処置でなんとか間に合わせた」のは明らかだった。

ピットに入ってからの作業も続き、他車がスタートグリッドについてもなかなかでてこない。当然、観客席にもざわめきの波が広がる。

僕も、904の走りを見るのが最高の楽しみだったので、祈るような気持ちだった。

904がピットから出てきたのはスタート数分前だったと記憶しているが、当然観客席からは大歓声が挙がった。
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スタートは904が決め、そのままトップで周回を重ねる。904はオンザレールできれいにコーナーをクリアして行くが、対するスカイラインGTは「基本どアンダー」をドリフトでカバーする。

痛手が完治していない904は抑えて走っていたのだろう。スカイラインGTとの差はあまり開かなかった。

そんな状況で、式場荘吉を追う一番手は生沢徹。2人のスター・ドライバーが、世紀の1戦で激しいバトルを繰り広げているのだから、観客にとっては最高の場面だ。

そして、伝説に残るストーリーは7〜8ラップ目に起きた。生沢徹のスカイラインGT が式場荘吉のポルシェ904を抜き去り、そのままグランドスタンド前を通過していったのだ。

あの時の興奮は忘れようにも忘れられない。
今に置き換えれば、、サッカー、ワールドカップの決勝に進出した日本が、相手をリードするゴールを決めた、、そんなたとえを重ねてもおかしくないほどの興奮だった。

904がトップを譲ったのはこの時だけだったが、生沢徹とスカイラインGTはこの瞬間、スーパースターになった。

そんな日本GPから5~6年ほど後のことだったかと思うが、僕は904に乗る機会に恵まれた。京都トミタオートの富田義一社長からのお誘いだった。

きれいな904だった。希少なクルマであり、貴重なクルマでもあるので、僕はひたすら慎重に走った。

京都の街と嵐山高雄パークウェイを走ったのだが、その走りやすさには驚いた。「オーナーが自走でサーキットに行けるフレキシビリティを持ったレーシングマシン」というポルシェの言い分がすぐ理解できた。

パークウェイではちょっとだけ深く踏み込んでみたが、そんなレベルではなにも起きない。しかし、僕は、ポルシェ904というクルマに乗れたという事実だけで有頂天だった。

時は半世紀ほど流れて2016年6月、、僕は試乗したときに撮った904の写真をFBに載せた。もちろん、多くの「いいね」を頂いたのだが、ひとりのコメントに驚いた。

「あれ、鈴鹿で式場荘吉さんが乗った904そのものですよ」という驚きのコメントの主は、富田義一さんだった。

試乗したときには富田さんからそんな話しは聞かなかったし、、まさに青天の霹靂だった。

ただの904と日本のレース史に輝く904とでは重みは何倍、何十倍も違う。半世紀前、僕は、富田さんからすごいプレゼントを頂いていたのだ。僕の中での904の高いポジションはさらに高くハネ上がった。

この場を借りて、富田義一さんに改めて感謝の意を表させていただきます。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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