2025.09.10
世界が賞賛する日本人ダンサーTAKAHIRO「僕はダンスを失うことは一生ない」【後編】
マドンナの世界ツアーに同行するなど日本を代表するダンサーとして活躍してきたTAKAHIROさん。現在も人気アーティストの振り付けやダンサーの育成などに大忙しです。インタビュー後半では日本のショービジネスと、自身のダンサーとしての将来について伺いました。
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文/安井桃子 写真/玉井美世子 ヘアメイク/吉田葉づき 編集/森本 泉(Web LEON)

そのデビューは、日本ではなくアメリカ。マイケル・ジャクソンを輩出したニューヨーク・ハーレムのクラブ「アポロシアター」で行われる人気コンテスト「アマチュア ナイト」で2005年にダンサーの年間トップ記録を樹立、その翌年、テレビ版「アポロシアター TVショー」に出演すると、なんと歴代最多となる9大会連続優勝を果たしました。マドンナのワールドツアーにも同行した超実力派、国際的ダンサーです。
現在はアイドルグループの振り付けや、ダンサーの育成にも力を入れているTAKAHIROさん、前編(こちら)では単身渡ったニューヨークでの暮らし、そしてマドンナから学んだプロの生き様などを語ってくれましたが、後半では日本のショービジネスと、自身のダンサーとしての将来について伺いました。
枯れた花よりも、咲き誇った状態で持って帰りたい
TAKAHIROさん(以下敬称略) アメリカでは、それまでお会いしたことのない人たちが僕のダンスを見て楽しんでくれていました。そしてそこで新しい出会いがあり、可能性が広がっていった。けれど同時に「僕は誰にこのダンスを見せたかったのだろう」とも思ったのです。そしてその答えは単純、家族なんです。父や母にダンスを見てもらって「すごいね、頑張ったね」と言ってもらいたかった。
2011年に東日本大震災が起こり、アメリカではとてもセンセーショナルに報道されていました。日本では絶対流れていないような映像まで。そういうものを目の当たりにするなかで、今日本に帰らないと、見せたい人に見せることができなくなるかもしれない。そう思い帰国を決めました。
TAKAHIRO ビジネスのことだけを考えればそれは怖かったです。でも僕は、アメリカで活動して、隠居する頃に日本に戻るのでは遅い、そう思ったんです。体力的にも元気で、高くジャンプもできて、自分なりに最高のパフォーマンスができる今、日本に戻ろうと。枯れた花を持って帰るよりも、咲き誇った状態で大切な人たちに
見てもらいたい。そんな気持ちでした。
帰国後は、当時僕がもっとも尊敬するアメリカ人ダンサーたちとチームを組み、日本公演を行い家族や応援してくれる方々に見てもらうことができて、改めて幸せを感じました。

TAKAHIRO マドンナに僕の振り付けを褒めてもらって以来、自分で踊るだけではなくて誰かを輝かせる踊りをつくりたいと考えるようになっていました。そして振り付けとは、新しいものをつくる、というよりもいかにそのアーティストに合うものを見つけ出すかだと考えています。「これが最新のトレンドだ」と思ったものを、相手を見ずに押し付けることはしてはいけない。ダンスってオーダーメイドのお洋服みたいなものなんですよ。その人にあった伸縮性があり、素材があり色がある。
まだ駆け出しの頃、子供たちにダンスを教える機会があったんです。20代の頃で人に教えるのも初めてで「よし、最高で最先端のダンスを教えてあげよう!」と力んでしまった。そうしたら子供たちが泣き出しちゃって。別に熱血指導したんじゃありません。子供たちが踊りたかったダンスと、僕が教えようとしたクラブシーンで最先端のダンスは全然違うものだった。それで子供たちはガッカリしてしまったんですよ。
自分の最高と、誰かにとっての最高は違うものなんだと、その時に身に沁みてわかったんです。以来目の前の人のことを考えることが大事だと思うようになりました。
目の前に見えている「才能」というものだけで、安易にその人を判断しない
TAKAHIRO 僕自身もアポロシアターでのオーディションの際、本来落ちていてしかるべきだったのに、「あなたはファニーよ、何かを感じる。あと1回チャンスをあげる」と言ってもらえた身です。その時の審査員の方は、他の審査員が僕を酷評するなかで「いや待てよ」と思ってくれた。つまりは、ものの見方なんです。一方向から見たら全然ダメでも、他の方向から見たら輝いているかもしれない。角度を変えて、その人を見ることを意識しています。
それにアイドルやアーティストですと、活動期間は年単位になります。例えるなら日常では100m走が早いとか、山登りで5合目まで早くいける人が、「すごい」「才能がある」と言われがちですが、我々が発見しないとならないのは、5合目を越えても歩き続けて頂に辿り着ける人。そして頂に着いてなお、次の山を目指せる人です。
ですから、目の前に見えている「才能の片鱗」だけで、安易にその人を判断しないで、その人の未来まで想像するように心がけています。

TAKAHIRO その人の一点だけを見るのではいけません。その人の未来が、その人にとってワクワクするものになってほしいと考える。そして、そのために今日の自分に何ができるか。そういう視点で人と自分を見ることが大事だと思います。
── さまざまなアイドルをご覧になってきて、改めて感じる日本のアイドルの強さとはどんなものでしょうか。
TAKAHIRO 海外のアイドルだとやはり旬があるのです。花が咲いてパッと散るように、ファンは時の流れで
離れていく。けれど日本では10年20年と愛されるアイドルが多くいるのが凄い事です。芽が育ち、花が咲いて、風に吹かれる姿を愛し、その先に葉が紅葉して、渋い色になっていく様子も楽しんでいく。解散まで見届けることもあるでしょう。ワビもサビも愛する、そういう文化は海外の方からも尊敬されています。
TAKAHIRO 実は曲によってはあります。「この歌詞はもしかしたら将来解散したあとも、メンバーが集まって一緒に歌えるかもしれない」と思う曲には、60歳になっても踊れるような動きを取り入れているんですよ。もちろん今だからできる激しい動きで魅せるものもありますし、それぞれに想いがあります。
たったひとりの自分という観客を喜ばせるために一生踊り続ける
TAKAHIRO ダンサーだけではなく、ダンスにまつわるコンサートのステージ設計のノウハウを持ったチームや振付チーム、アーティストの方に魅せ方を丁寧にレクチャーできるスタッフも所属してもらっています。ダンスをお見せする際、実際はさまざまな技術に支えられているわけで、その技術や必要情報を組織的に網羅出来ている集団を構築しています。ダンスに関しては、日本トップレベルの組織にまで成長しています。そして休日は、子供たちに無料でダンスレッスンを開いたりもしています。

TAKAHIRO だんだんとゴムが劣化していくように、人間の身体は必ず変化していきます。抗うのか、流れにのっていくのか。どちらも正解でしょう。身だしなみとして抗うことは大事。だからトレーニングを重ねているんです。そして同時に、時を認めることも必要です。時が経ったからこそ出せる良さもきっとある。
葉が紅葉しているのに、若い頃と同じ器でいいのか。パフォーマンスもそうです。今この身体だからこそできる動きを追求する。時に抗いながらも気持ちよく流される、そんなアンビバレントな状態を楽しんでいます。
TAKAHIRO はい。だってもともとダンスを始めた時、観客は僕ひとりしかいなかったんです。最初はその自分自身を、たったひとりの観客を喜ばせたくて始めたことです。身体が動かなくなっても、観客がいなくなっても、最初に戻るだけ。一番最初の観客は、ずっと席にいてくれて、「君も歳をとったね、それも味だね」なんて言いながら、僕のヨロヨロとしたダンスを楽しんでくれる。だから、僕がダンスを失うことは一生ないのです。

● TAKAHIRO(タカヒロ)
1981年生まれ。東京都出身。ダンサー、振付家として国内外で活躍。
世界的に有名な「NY APOLLO Theater TV Show」にソロダンサーとして出場。史上最高記録となる9大会連続優勝を達成し米国プロデビュー。在米中、全米の優れたダンサーの中から選出されマドンナワールドツアーに参加。Newsweek「世界が尊敬する日本人100」に選出。日本では、振付家として欅坂46、櫻坂46、 ゆず、中島健人など、様々なアーティストや作品の振付・演出を幅広く手掛けている他、TBS「それSnowmanにやらせてください」や、プロダンスリーグ「D.LEAGUE」など、審査員・解説者としての出演も多数。他、役者としてドラマ・映画への出演など幅広く活動。教育者として全国で後進の育成に力を注いでおり、大阪芸術大学客員教授、DA東京学校長を務めている。ダンサー事務所INFINITY主宰。「The fastest 20 m moonwalk」ギネス記録保持者。