2025.06.14
第7回 相田翔子 【vol.01】
美しい人、相田翔子。「Winkのキラキラはあの時にしか出せない宝物。だからそのまま残しておきたい」
大人の女性の美しさに迫るグラビア連載「美しい人」。第7回目にご登場いただくのは相田翔子さんです。Winkとして『愛が止まらない』や『淋しい熱帯魚』など大ヒット曲を連発。ソロ活動開始後も歌にドラマにバラエティにと活躍を続け、変わらぬ若々しさが印象的な相田さんの「美」の秘密とは?
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写真/浅井佳代子 文/渡邉朋子 スタイリング/金子美恵子 ヘアメイク/きくち好美 編集/森本 泉(Web LEON) プロデュース/Kaori Oguri

第7回のゲストとしてご登場いただいたのは相田翔子さんです。Winkとして『愛が止まらない』や『淋しい熱帯魚』など今も歌い継がれる大ヒット曲を連発。ソロ活動開始後も歌にドラマにバラエティにと、幅広い活躍で年齢を感じさせない若々しさが印象的な相田さんの「美」の秘密とは?


【interview 01】
昨日まで事務所で電話番をしていたのが、急に電車で「Winkだ!」と囲まれて
相田翔子さん(以下、相田) 中学2年生の時に、親友の子が「一緒にオーディションに行こうよ。ぱっと歌うだけだから」と申し込んでくれて。歌は大好きでしたけど、私はあがり症で引っ込み思案だったので震え上がる思いでした。当日はユーミン(松任谷由実)さんの『ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ』を歌ったんですけど、たくさん練習したのにステージに立った瞬間、体が硬直して思うように歌えなくて。自分には向いてないと思って帰ろうとしたら、芸能事務所の方に「モデルをやってみない?」と声をかけていただいたんです。
── それで芸能界へと進まれるわけですね。
相田 事務所の方が両親にも会いに来てくれたんですけど、「今は学業優先なので、高校に上がるまで待ってください」と(親が)お話しして。そこで終わりかなと思ったら、高校になったら本当に「レッスンを始めましょう」と熱心に言ってくださったんです! そこから、お芝居や歌、作詞作曲などのレッスンを受けることになりました。
高2の時にはデビュー曲も決まってレコーディングまでしたんですけど、デビュー直前に学校に相談したら、「うちの学校は芸能活動は禁止なので、やるなら転校してください」と言われてしまって。

相田 でも、私もその時は転校してまでデビューしたくないなと思ってしまい、事務所にそのように伝えたら、「じゃあ高校を卒業するまで待ちます」と、そこでもまた寛大に受け止めてくださったんです。本当にありがたいことなんですけど、そんななか、学校から「芸名であれば芸能のお仕事をしてもいい」と言われて、モデルのお仕事とかコマーシャルとかドラマに出始めるようになりました。
── そこからどのようにWinkへとつながっていくんですか?
相田 ドラマの主題歌を歌う子たちを探しているということでオーディションがあったんです。で、当時同じような活動をしていた(鈴木)早智子と私で組むのがいいんじゃないかという話があったみたいで、ふたりだけがスタジオに呼ばれて。課題曲を歌ったら奇跡的に声のバランスがばっちりでトントン拍子にデビューが決まったんです。その頃、就職活動もし始めていたんですけど、高校を卒業して4月27日にはデビューということで、そこで全部ほかのことはやめました。
── デビューの話を聞いた時はやはりうれしかったですか?
相田 ひとりでステージにボンと出されたら、また昔の恐怖が蘇るので、ひとりじゃないと知ってうれしかったですね。早智子とはオーディションで一度お話しただけでしたけど、パッと会った瞬間に同じような温度感と空気感で、「私も人見知りなんだ」と言ってくれていたので、あの人となら心強いなと思っていました。

相田 でも当時はアイドルが低迷していた時代で、今、2人組でデビューしても売れるはずがないってどこかで思っていたんです(笑)。なので、記念に1曲残せたらいいかなというぐらいの気持ちで、デビュー当日はふたりとも実家で静かに過ごしていました(笑)。
結果、デビュー曲はあまり売れず、2枚目はもっと売れず(笑)。3枚目は『愛が止まらない〜Turn it into love〜』という、カイリー・ミノーグのカバー曲だったんですけど、それが当時、ディスコやクラブでカイリーの元歌だけでなく、私たちの方も流してくださる方がいて。日本語バージョンは誰が歌っているんだろうと話題になって、有線でかかり出したら曲先行でどんどん売れていってオリコンでも1位になったんです。そこからテレビにも呼んでいただくようになって、急に忙しくなっていきましたね。
── 一気に多くの方に知られるようになって、生活も一変したと思いますが。
相田 昨日まで電車で事務所に通って電話番をしていたのが、電車に乗ったら急に「あ、Winkだ!」と人に囲まれたり、昨日と今日でまったく状況が変わったので、最初は戸惑いが大きかったです。でも、今まで人が全然入らなかったキャンペーンも黒山の人だかりになったので、さっちんと「私たち、どうしちゃったんだろうね」と言いながらもうれしくて(笑)。
「Winkです!」と紹介されてステージに出る時には、「え、私たちなの? どうしよう」ってふたりで背中をつつき合って出ていくと、キャーっていう声援を浴びて、それが自分たちに向けられていると実感するのにも時間がかかるぐらいでした。
ふたりで喫茶店でケーキを食べていた時も、有線で『愛が止まらない』が流れると、喫茶店から飛び出して「社長! 今、私たちの曲がお店で流れたんです!」と伝えに行ったりしていました(笑)。

相田 はい。ちょこちょこ連絡は取り合っていて、4月27日がデビュー記念日なので本当は会いたいんですけどね。
── Winkとしての活動期間は8年でしたよね。
相田 自分としてはすごく長くやっていたような感じもしますけど、本当に毎日がキラキラしていてコンサートの夢も叶って、ぎゅっと濃い時間を過ごしたなと思います。緊張する場面もふたりだから助け合えたし、私は早智子にすごく引っ張ってもらいました。
── Winkを離れてお互いソロにというのは、おふたりが決めたわけではないんですよね?
相田 そうですね。ある日、社長から「一生Winkを続けていくのは難しいし、ふたりがそれぞれの道を歩むには今がいいタイミングだと思うから、Winkを解散しよう」と言われて。それはレコード会社と事務所とみんなが相談して決めたことだったので、私たちは反対することもできなかったんです。でも、私はずっとWinkの一員でいたいし、Winkというものを大事に残したかったので、せめて「解散」という言葉は使わず、Winkという名前を残してくださいとお願いしました。そしたら、誰かが「活動停止」という言葉を見つけてくれて。
その後、何度か復活で歌わせていただく機会はあったんですけど、私の中でWinkは、あの初々しい年頃にマッチした楽曲や振り付けや衣装、すべてがひとつになってできたものだと思うので、大人になっていろいろ経験してきたふたりがWinkとして出ることがいいのかなというのはすごく悩むところですね。あの頃のキラキラはあの時にしか出せない宝物なので、そのまま残しておきたい思いも、私の心の中には正直あります。

相田 私は早智子がいなかったら何もできないので、事務所には本当に土下座に近いような状態で「私はこのまま引退します」と言ったんです。でも、ずっと支えてくださっていたプロデューサーさんが、私がそれまで地道に曲作りをしていたのを知っていて、表に出ない形で詞や曲を書くことを提案してくださって。あがり症の私には光がぱ~っと見えた気がしました。
私はWink時代から曲を作っている時が一番幸せで、アレンジャーさんの手によって自分の曲がどんどんお化粧されていく様子に大興奮していたんです。ソロで曲を出して歌う際も本当にスタッフに恵まれて、私が緊張せず、いい形でできるように皆さんで守ってくださいました。
私がボサノバにハマって楽曲を作っていた時は、ロスとニューヨークの名だたる方々にアレンジをお願いしてくださったり、私の大好きなセルジオ・メンデスさんのバンドメンバーを集めてくださったこともありました。録音した音源をもらって帰ってきて、自分のできたての曲を聞くと興奮して眠れないぐらい、本当に夢のような体験でした。

● 相田翔子(あいだ・しょうこ)
1970年2月23日、東京都生まれ。1988年に鈴木早智子とともにWinkとして『Sugar Baby Love』で歌手デビュー。3枚目の『愛が止まらない〜Turn it into love〜』が大ヒット。1989年には『淋しい熱帯魚』で第31回日本レコード大賞を受賞。1996年に活動停止後、ソロとして全曲自作のアルバムも発表。また、『世界ウルルン滞在記』、『笑っていいとも!』、『メレンゲの気持ち』などバラエティでも人気を博し、ドラマ『太閤記〜天下を獲った男・秀吉』、『孤独のグルメ』、映画『花とアリス』、『東京喰種 トーキョーグール』などで女優としても活躍。現在はCSチャンネル『宮本隆治の歌謡ポップス☆一番星』(第2、4金曜18時〜)に出演中。6月15日には「SHOKO AIDA Live at COTTON CLUB 2025〜with love Ⅲ〜」が開催。
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