2018.09.21

それは本田博俊と生沢徹だった

放送作家を志した若き日の筆者は、日本大学の放送学科へ入学。クルマ通学をする中で、正門付近にいつも心惹かれるクルマが停まっていることに気づき……。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

小学校は地元。中学で青山学院(中等部)に入り、高等部、大学とエスカレーターに乗って進級。

中等部に入る前はそれなりに勉強はした。とはいっても、塾のハシゴといった昨今のような厳しさとは縁遠いもの。放課後に友達と遊ぶ時間を削ったこともほとんどない。

ま、それでも受かったのだから、ラッキーだったのだろう。ちなみに、当時(1953年)の青山学院中等部の合格率、男は3人に1人、女は5人に1人くらいだったはず。男には、さほど難関ではなかったともいえそうだ。

で、その後は遊びに、趣味に、デートに、楽しい日々を送った。青学は僕に、最高の青春時代を送らせてくれた。

ところが、僕の最終学歴は青山学院大学ではなく、日本大学芸術学部放送学科(以下、日芸)。

大学を2年で中退し、日芸に入り直したのだ。前にも触れたことがあるが、それは放送作家になるためのアクションだった。
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さて、本題に入ろう。日芸は練馬区江古田にあるが、当時、キャンパスの周りはほぼどこにでも駐車ができ、正門付近でも自由に駐められた。

そこでクルマ通学をすることにした。どんなクルマで通ったかはハッキリ思い出せないが、MGA、デソート、MGB辺りだったと思う。

正門付近にはたいてい数台のクルマが駐まっていた。そんな中、とくに気になるクルマが2台あった。1台はMGBで、もう1台はロータス・エリート。

とくに、ロータス・エリートは、文字通り「クルマ好きの中でもエリートが乗る類」。だから、どんなやつが乗っているのか気になって仕方がなかった。

あちこち聞き回ったところ、すぐに所有者がわかった。

驚いた! それは本田宗一郎の長男、本田博俊だった。

前後して、MGBのオーナーが生沢徹であることもわかった。

1964年第2回日本GP。式場荘吉が駆るポルシェ 904と生沢徹が駆るスカイラインGTの名勝負は伝説になり、あの日を境に生沢徹はスーパースターの座に上り詰めた。

日芸に同籍したのはその1〜2年前だったかと思うが、日本レース界の若きスターとして、すでに知る人ぞ知る存在になっていた。

学年も学科も違うので、2人と顔を合わせる機会はなく、そのまま卒業したが、僕が自動車ジャーナリストになったことから、取材の場で顔を合わせることになった。

生沢徹とはサーキットでよく出会ったし、雑誌の仕事で同席したことも何度かあった。僕のレーシングカー試乗の際、ゲストになってもらったこともある。

彼は当然、本田博俊とも交流があり、「日芸正門前で目立ったクルマ」の話は弾んだ。

「ピンクのデソートがきてたけど、あれ、お前のだったんだ! とんでもないヤツがいるもんだと思ったよ」と大笑いになった。

やはり、テールフィンを高く突き出したピンクのデソートはインパクトがあったようだ。
とはいってもポジティブなものだけではない。

「とんでもないヤツがいるもんだ」といった生沢徹の言葉にしても、「お前なぁ、あんなの乗るなよう」みたいな雰囲気だった。
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本田博俊とのいちばんの思い出は、家に遊びに行った時のこと。つまり、本田宗一郎宅に遊びに行ったことだ。

もちろん大邸宅だった。でも、いちばん「凄い!、羨ましい!」と思ったのはガレージ。横長のガレージで、6台だったか、8台だったか。とにかく欧州系の名車がズラリと並んでいた。

いわゆる博物館的名車ではなく、超高価なスーパーカーでもない。当時のクルマ好きたちが「ほしい!」と願い憧れていた、そんなクルマばかりだった。

ハッキリは覚えていないが、上記のロータス・エリートをはじめ、ロータス・エラン、ジャガー・XK-E、ジャガー・マークⅡなど、そんなクルマたちだったように思う。

ため息はもちろん、ヨダレまででそうだった。

ガレージはシンプルだが、清潔で、クルマたちもきれいに磨き上げられ、きちっと整列していた。僕の夢のすべてがそこにあった。いや、夢をはるかに超えた眺めだった。

本田博俊の部屋にも、ほしいものがいっぱいあった。特にほしかったのは、小排気量レーシングバイクの吸排気バルブ。

1960年代のホンダは、例えば、125cc/5気筒で、2万回転以上回すようなレースエンジンを作ったが、そうしたエンジンの小さなバルブは、まさに宝石のように美しかった。

ガラス棚に置かれた小さなバルブは、他のなによりも輝き、強烈な存在感を放っていた。

「このバルブ、1本でいいから譲ってもらえないかなぁ」とダメもとで言ってみたのだが、当然のごとく「ダメ」の答えが返ってきた。

もし、あのバルブがもらえていたら、今でも「僕のいちばんの宝物」であり続けていることは間違いない。

日芸にはきちっと通い、それなりに勉強もした。もちろん、仲のいいヤツもいた。が、学校の外で付き合うことは少なかった。

日芸の授業が終わると、青学の仲間と合流して夜中まで遊び回った。僕は今もそうだが結局「青学人間」のままだった。

日芸に4年通いながら、楽しかったこと、悲しかったこと、印象に残っていることはほとんどない。皆無に近いといっていいほどだ。

そんな中、生沢徹、本田博俊とともに、正門前に並べてクルマを駐めていたことは、ほとんど唯一、「ちょっと自慢気に話せる、楽しい思い出」になっている。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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