2018.04.06

「バハ1000」に挑戦!

カリフォルニア州南端の半島、バハ・カリフォルニアを縦断するオフロードレース「バハ1000」。74年に参加した筆者を待ち受けていたのは、想像以上に過酷な体験だった。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

「バハ1000」。
モータースポーツ好きならご存じだろう。カリフォルニア州南端に繫がるメキシコ領の細長い半島、バハ・カリフォルニアを縦断するオフロードレースだ。

このレースに、スバルの小関典幸さんと1974年に参加した。

コースは国境を少し入ったエンセナダから南端のラパスまでの約1000マイル。そのほとんどが砂漠の中のオフロードで、ゴールまでひたすらタイムを追って走り続ける。


レースの数週間前、僕はコースの下見のため、知り合いのアメリカ人チームに同行し、スタートポイントからゴールまで走った。シボレーのフルサイズトラックに3人乗りで。

下見は3泊4日ののんびりムード。スピードも出さない。車高を上げ、ぶっといバルーンタイヤを履かせたシボレーは、「えっっ!」と思うような難所も難なくクリアしていく。バハ下見の旅は、ただただ楽しいだけだった。

僕たちのスバル・レオーネは、車高は上げていたが、少しだけ。タイヤも並のラリータイヤ。バルーンタイヤのような浮力はない。

コース下見の旅を楽しみながら、一方で「僕たちのクルマでバハを走りきれるのか」との不安はどんどん高まっていった。
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エントリー台数は300台近かったと思う。もちろんスタートポイントは大混雑。見渡すとパドックを埋め尽くした大半のクルマは、思い切り高い車高とバルーンタイヤを組み合わせていた。それに比べれば僕たちのレオーネはまるでサーキット用レースカーのように見えた。

2輪と4輪が走るが、レギュレーションはゆるく、基本、どんなクルマでも走れる。

車名と姿は市販車でも、中身はまったくの別物も多い。その典型がフォード・ワークスのブロンコだった。骨格は軽量パイプで組まれ、エンジンはインディ・シリーズ用のV8ベース。

そんなワークス・ブロンコをレース序盤に1度だけ見かけたが、驚いた!!

砂漠の中を真っ直ぐ続く、高く盛り土された2車線のハイウェイを僕たちが走っていたときだ。ワークス・ブロンコはなんとそこを直角に横切ったのだ。

まず、左手にセスナ・クラスの飛行機が見えた。かなり低く飛んでいたので「あれっ?」と思ったのだが、そのすぐ後ろから猛烈な砂煙が。砂煙の主はブロンコだった。

ブロンコは盛り土されたハイウェイを直角に横切り、再び、猛烈な砂煙と共に右手の砂漠の中に消えていった。僕たちの150〜200mくらい先だっただろうか。

飛行機が地形や路面を見ながら、ブロンコを最適かつ最速のコースに誘導していたのだ。

バハ1000は決められたチェックポイントを通過しさえすればどんなルートを走ってもいい。
だから、目撃したブロンコのようなことができるのだ。驚き、呆れ、そして感心した!
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ここでいきなりわがチームのレース結果に話は飛ぶが、戦いは序盤で終わった。夜間の走行で速度は120k m/h くらいだったはずだ。路面のうねりを見逃して不測の大ジャンプ。着地のショックでトレーリングアームが折れ、ジ・エンド。

コースの下見ではまったく気づかなかった落とし穴にはまった。完走率は50%程度と聞いたが納得だ。バハ下見の旅は最高に楽しかったが、バハのレースは過酷だった。

レースはあっけない幕切れになったが、リタイアした後が大変だった。

折れたトレーリングアームを外し、いつ来るかわからないクルマを待ち、3台目のトラックにようやく乗せてもらった。

身振り手振りで溶接できるところに行きたい旨を伝え、荷台に乗せてもらった。ところが、砂漠のど真ん中の3差路で「あっちへ歩け」と指さされて降ろされた。

結局、町に着くまで1時間半ほどかかった。トレーリングアーム(そうとう重い)を担いでいるので、当然歩くのも遅くなるが、それでも3〜4kmはあったと思う。

溶接屋はすぐ作業してくれた。帰路は溶接屋のオヤジに「お金を払うから」といってクルマを呼んでもらい(白タクならぬ、白トラックだが)無事帰還となった。

すぐトレーリングアームを組み付けて出発。1日か2日でアメリカに戻れるだろうと。だが、そんな希望はわずか5kmほどで霧散。ガクンときたときはまさかと思ったが、溶接ヶ所がまたもや見事に折れていたのだ。

小関さんにバトンを渡し、再び同じことのくり返し。小関さんが出発したのは午後3時頃だが、戻ってきたのは翌朝。バハの闇の中、夜を一人で過ごすのは怖かった。

室内灯を点けて道端に駐まっている競技車をみて心配になったのだろう。トラック・ドライバーが声を掛けてくれ夜食を分けてくれた。ランタンを灯し、トラックのタイヤに寄りかかって、タコスと豆を二人で食べた。親切が、優しさが身にしみた。涙が出そうになるほど、嬉しくて、幸せな気分だった。

「トラブルがあっても、われわれの飛行機がコースを監視しているからご安心を」とは主催者の言葉だが、機影など一度も見なかった。

結局、LAに戻るまで5日半ほどかかった。でも、レースのことより、リタイアしてからの5日半の出来事の方が、僕にはずっと大切な想い出になっている。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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