2026.03.22

62年前の就職試験

高度経済成長期、日本の社会が目覚ましく変化していった。その最中、フジテレビの内定を蹴って、新刊された自動車雑誌への就職を決めた筆者は、何を思い、どんな出会いがあったのか語ります。

BY :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
CREDIT :

イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第2778回

62年前、、僕の就職試験は楽勝だった!

イラスト 溝呂木 陽 お酒と雑誌

このところ、TVを点けると、新卒者の採用試験現場などの映像が多く流れている。こうした映像を見ながら、高齢の方々は、自分の若かりし頃の就活の思い出をあれこれ思い浮かべているに違いない。


僕も「新卒採用試験的なもの?」は一応は体験している。でも、その内容は、幸か不幸か、一般的な、あるいは常識的なものとはとても言えなかった。


僕の就活は、小さな喫茶店でコーヒーを飲みながら、一人の人物と小一時間、話しをしただけ、、。


就活にかかった費用は、ジョニーウォーカーの黒ラベルを1本買ったのと、面接場所に近い駐車場の料金だけだった。

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ただし、ジョニーウォーカー黒ラベルは、当時のウィスキーとしては非常に高価だった。たしか1万8千円ほどしたと思う。


僕の初任給が2万7千円ほど(当時としては高い方)だったのだから、その7割近い価格だったということになる。


ちなみに、知り合いの女性(28歳で高卒)が、日本橋三越の洋服売り場に勤めていたが、月給は1万8千円と聞いていた。


で、東京駅八重洲口近くの小さな喫茶店でお会いし、就活の話をした相手は、八重洲出版という出版社で「ドライバー」という自動車専門誌の編集長。


父の知り合いに紹介された方だが、ドライバーに来る前は、大衆娯楽紙「内外タイムス」の編集長をなさっていたとのことで、とても楽しく、快活、雄弁な方だった。


プレゼントのジョニーウォーカーをお渡しすると、「おっ、すごいプレゼント! ありがとう‼ 僕が酒好きっだって、調べたんだね。調査能力にまず満点をつけるよ(笑)」と、ストレートに喜んでくださった。


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「ところで岡崎さん、フジテレビを蹴って、吹けば飛ぶようなドライバー誌を選んでくれたって聞いたけど、驚いたよ! よっぽどクルマが好きなんだね。うれしいし、ありがたいよ。ぜひ、ウチにきてほしい!」


「入社試験てわけじゃないけど、たしか、近々に宇都宮で大きなジムカーナイベントがあるようなので、それを取材してきてくれないかな。文と写真の両方、頼めたらうれしいんだけど、、、」


僕はもちろん、喜んで取材依頼を受けた。ちなみに、そのイベントは、僕がチームリーダーだった「チーム8」という小さなクラブと、トヨタの巨大クラブ「TMSC」の合同イベントだった。


「チーム8」は、僕の走り仲間8人で作った同好会のようなもので、事務所もなにもなく、集合場所はわが家だった。


人数は少なかったがみな腕は確か。8人のうち2人がトヨタ ワークス入り。トヨタ7に乗るまでになった。その内の一人が河合 稔だ。


僕ともうひとりにも日産ワークスからお呼びがかかったが、お断りした。二人とも、むろんレースは好きだった。でも、それを職業にする気持ちはなかったからだ。

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チーム8は小さかったが、そんなクラブだった。だから名は通っていたし「TMSC」といった巨大クラブとの共同イベントも開けた。


で、、就職試験のジムカーナ取材は、記者の立場、参加者の立場、主催者の立場といった多面的な立場からの記事としてまとめだが、文句なし⁉ の合格。八重洲出版、ドライバー編集部への就職はそこで決まった。


就職が決まったのは3月初旬頃だったと思うが、編集長には「時間がある時は編集部に来て手伝ってくれ」と言われ、たしか、3月の半分くらいは顔を出したと記憶している。


そして、まだ見習い編集者なのに、かなりのページ数の原稿を書かされた。驚いたが、同時に「僕の原稿が認められた」ということだから、とてもうれしくもあった。


当時は、新卒者の就職活動は人生を大きく左右するものとされた。言い方を変えれば、ある企業に就職したら、一生の命運をその企業に託すことになる。だから、誰もが真剣に考え、真剣に、いや、必死に取り組んだ。

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ところが、最近は転職も容易になり、働きながら、経験を積みながら、将来の自分の進むべき道を探りながらステップアップしてゆくといった歩み方をする人が多くなっている。


僕が大学を卒業したのは1964年。今から62年前だが、大学3年の時には、親のコネですでに就職先はほぼ内定。その就職先とはフジテレビ。当時としては花形の就職先だった。


中等部から大学1年までは、青山学院に通った。だが、以前にも触れたが、僕が将来の仕事として夢見ていたのは「シナリオライターになること」。


父親が児童文学者であり、児童小説や、子供向けラジオ番組の脚本を多く手がけていたことに影響を受けたのだろう。


上記のように大学1年までは青山学院に通ったが、シナリオライターになる夢が膨らむにつれて、青山学院で学び続けることに疑問が出てきた。


、、で、あれこれ考えた挙句に、日大芸術学部放送学科に入りなおすことに決めた。親には負担をかけることになったが、快く受け容れてくれた。特に、父親はうれしそうだった。

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日芸では多くを学んだという思いはない。だが、、「放送」というひとつの目標に向かって夢を抱き、将来を賭けようとしている人たちと共に日々を過ごし、議論を戦わせ、夢を語り合うのは素晴らしいことだった。


日芸に通いながらフジテレビでアルバイトをしたが、有力ディレクターが担当する番組の便利小僧をやるのは楽しく、また、「TVを知る」という意味でとても勉強にもなった。


僕は、まずは「TV屋」になり、次に「シナリオライター」になるという夢と希望を抱いて日々を過ごした。


ところが卒業をほぼ2年後に控えた時期に予期せぬ出来事が起こった。


これも以前に書いたことがあるが、1962年に「CG(カーグラフィック)」誌が創刊したことで、元々クルマ好きな僕の気持ちに、自分でも信じ難いほどの大きな変化が起きた。


自動車専門誌はすでにあれこれあり、僕も読んではいた。だが、「僕の将来の夢」に影響をもたらすようなものではなかった。

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ところがCG誌は違った。英国をはじめとした海外自動車先進国の雑誌のような輝きを持ち、夢をもたらしてくれたのだ。


そしてCG誌を立ち上げた小林彰太郎さんは僕の憧れの人になった。僕は小林彰太郎さんのようになりたくなった。


当時の花形的存在であったフジテレビをキャンセルするのには、いろいろな意味で勇気が要った。父親にも、父親の声がけでフジテレビに働きかけてくれた方にも迷惑がかかる。


でも、僕の気持ちはなにをしても止めようがないほど強く固まってしまったのだ。


そして、意を決して父親に、心の内を包み隠さずストレートに話したのだが、父は意外なほどあっさり受け容れてくれた。


「心配しないでいいよ。フジテレビに入りたい人はいくらでもいるんだから、、」と。そしてさらに「自動車雑誌に入りたいのなら、僕が探しておいてあげるよ。任せるかい?」とまで言ってくれたのだ。

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それからいろいろな人脈を辿って行き着いた先が、たまたま、僕の就職タイミングにピッタリ合った1964年4月に創刊した「ドライバー誌」の編集長ということだったのだ。


そして、初めに書いたような「入社試験?」を受けたのだが、編集長とお会いし、話をするうちに、「ここの編集長は、きっとお前を鍛えてくれるよ」と言った父の言葉を思い出した。


編集長が僕に課した仕事は「凄まじいほど」のものだった。、、が、僕は大変だとは思わなかったし、ひどいなと思ったこともない。


編集部から家に帰るのは、「終電か始発か」といった日々が続くのも珍しくなかったが、有り難かったのは、家内がそれを文句ひとつ言わずに受け容れてくれたことだ。


ところが、当時同居していた家内の母親は、「そんな会社はすぐに辞めなさい。いい会社が見つかるまでは、お母さんが今の倍の給料を払ってあげるから、、」と、とんでもないことまで言い出した。娘が可哀想だと思ったのだろう。

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僕はそんな母親にも感謝しながら、ハードな仕事を続けた。「これくらいのことを乗り越えられなくてどうする!」と、自分で自分を励ましながら、ハードな仕事に取り組んだ。


若かった僕だが、「編集長が与えてくれる試練には、いつかきっと感謝する日が来る」と思いながら、ハードな日々を過ごした。


そんな日々と、日本のモータリゼーションの進化、自動車産業の成長、それに伴っての自動車ジャーナリズムの地位の向上とが相まって、僕の仕事の幅は広がり、奥行きもどんどん深くなっていった。


雑誌や新聞だけではなく、メーカーからも、開発テスト、マーケティング、ブランディング等の仕事の依頼が相次いだ。並行して広告代理店との接触も増えていった。


メーカーとの仕事は、当然シークレットな内容のものであり、契約書 / 誓約書を伴う類のものが多かった。他言は一切できない類の仕事ということだ。


そんな過程で、僕は多くの素晴らしい方々と出会い、貴重な勉強をさせていただいた。そうした方々への感謝の気持ちは、一生消えることはない。

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岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。
溝呂木陽水彩展2026 Paris と Jane

溝呂木陽水彩展2026 Paris と Jane

期間/3月18日(水)~22日(日)

時間/12時~18時 会期中無休 毎日在廊 入場無料

会場/武里駅前 わたしの基地

住所/埼玉県春日部市大場1090-4

HP/https://lit.link/watakichi42


1/31から2/1まで、久しぶりにパリへ渡り、レトロモビル50周年イベントを26年ぶりに訪問。さらに近公開が始まったパリのメゾン・ゲンズブールも訪ね作成したジェーン・バーキンのフィギュアとジェーンとゲンズブールの画集も進呈したそう。そんな溝呂木先生が、そこで描いたスケッチやジェーン・バーキンのドローイング、パリやイタリアのクルマの水彩画、さらに作りためた模型完成品も展示販売します。ぜひ伺ってみてください。

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