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2020.08.09

川合稔と小川ローザ。バイクが運んだ出会いと別れ

共通の趣味はときに人と人の結びつける。筆者がバイクに夢中になっていたころ、よく走っていた第二京浜道路で出会った、スターとは?

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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第140回

川合稔と小川ローザ、出会いと別れ

川合稔、、旧いレースファンなら名を知らない人はいないだろう。が、彼が輝いた時間はあまりにも短かった。1969年にトヨタ・ワークスのエースドライバーになり、翌70年、27才の生涯を終えたのだから。

僕が川合稔と出会ったのは1958年頃だったと思う。第2京浜道路「多摩川大橋の上」で。

二輪に夢中だった最後の頃だが、横浜に行くのによく第2京浜道路を使っていた。横浜にはヨコ文字感覚の店が多かったし、なんとなくカッコ良さを感じていたからだろう。
六本木の溜まり場で仲間たちと会い、「横浜行こうか」となることはけっこう多かった。

で、多摩川大橋をよく通ったのだが、、ある時、橋の上にバイクを止めて所在なげに立っている男をみかけた。一度目はそのまま通り過ぎたのだが、、しばらくして、また同じ場所で同じ男に出会った。

細身で背が高く、、カッコいい男であることは遠目にもわかった。先頭を走っていた仲間が減速の合図をして男の前に止まった。4~5台で走っていたと思うが、みんな止まった。

先頭を走っていたのはわれわれのリーダー格。とても世話焼きな男だ。そんな性格から、「橋の上でひとりぼっちの男」との2度目の出会いは無視できなかったのだろう。

どんなやりとりをしたかは覚えていないが、その時から川合稔はわれわれの仲間になった。彼のバイクは確かホスク250だったと思う。

川合稔はカッコいい男だったが、バイクの腕もハンパではなかった。とにかく速かった。個人的にもすぐ仲良くなり、わが家にもよく遊びにきた。
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僕もバイク仲間(青山学院高等部の同期生が中心だった)も高校卒業を機に次々バイクから離れ、4輪に移っていった。大学進学という大きな節目もあって、、。

僕は大学進学と同時に4輪を買った。前にも話したルノー・4CVが人生初の愛車だ。

川合稔は2輪に乗り続けたため、会う機会は少なくなった。でも、ときどきわが家に遊びに来ていた。

当時のわが家は「クルマ好きの巣窟!?」状態。兄のクルマ仲間と僕の仲間が連日連夜集まり、クルマの話しで盛り上がっていた。

そして、1963年の日本GPでさらに盛り上がり、翌64年の第2回日本GPで完全にヒートアップ。わが家に集まっていた中年グループ、僕たち若年グループ混成軍での鈴鹿通いが始まった。ほとんどの週末は鈴鹿で過ごした。

川合稔は1964年、ホンダS600 が出ると同時に購入して4輪に転向。共に鈴鹿通いをした。

4輪でも川合は速かった。鈴鹿のタイムはグングン縮まり、短期間にトップクラスのタイムを刻むようになった。

当時、仲間と共に「チーム8」というクラブを作ったが、その名の由来は「結成メンバーが8人だった」から。単純な理由だ。

小さなクラブだったが、中身は濃かった。まずは「ジムカーナ荒し」と呼ばれるようになった。あちこちのジムカーナに出て、上位を総なめすることが多かったからだ。
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そんな中でも川合は速かった。もう一人、川合に劣らず速かったヤツがいたが、彼も愛車はS600 。ボディカラーは赤と白。「チーム8の紅白エスロク」はけっこう有名だった。

川合の速さを最初に認めたのはトヨタ。1966年にはトヨタ自販のドライバーとして契約。自販チームはトヨタの「Bチーム」とも言える位置づけで、スポーツ800や1600GTなどのツーリングカーのドライブを任された。

Aチームへの昇格には少し時間がかかったが、
1968年、福澤幸雄の不慮の事故死で空いたAチームのシートを獲得。ついにトップカテゴリーのマシンに乗ることに、、そう、トヨタ7のシートを獲得したのだ。

トヨタ7を駆る川合は速かった。すぐ、トヨタのエースに上り詰めた。長身と甘いマスクもあって、スター街道をも突き進んだ。

レース界に入る前から女性にはもてまくっていたが、さらに加速したのはいうまでもない。

でも、「小川ローザ」をわが家に連れてきたときは驚いた。覚えている方もおられると思うが、一世を風靡したと言ってもいい「Oh ! モーレツ」のCMで(丸善石油のハイオクガソリン)一躍スターになったモデルだ。

どんなきっかけで知り合ったのかは知らないが、まさに美男美女の典型といったカップル。
付き合って間もなく結婚したが、スター同士の結婚は、当然日本中で大きな話題になった。

そんな二人だが、わが家にくればだれも特別扱いはしない。だから居心地がよかったのだろう。よく遊びに来ていた。小川ローザは、華やかな外の顔とは違い、控えめで笑顔が素敵な女性だった。いつも川合を立てていた。
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結婚して半年くらい経ったある夜、いつものように二人で遊びに来た。いつものように、とりとめないお喋りを楽しんだ。そして、帰り際に「明日から鈴鹿行ってくるよ。7のテストなんだ。帰ったらまたくるからね」、「わかった、待ってるよ」といった言葉を交わして別れた。

トヨタはアメリカの人気レース「Can-Amシリーズ」にターボ化したトヨタ7での参戦を予定。川合はそのドライバーに決まっていた。川合は日本のレースファンの期待を一身に背負っていた。

突然の悲報が届いたのは、笑顔で別れた翌々日。川合が「トヨタ7のテスト中に事故で亡くなった」という。呆然とした。数日はなにも手に付かなかったように記憶している。

僕にとっての川合は遠い存在のスタードライバーではない。10年近く多くの時間を共にしてきたかけがいのない「友達」だった。悲しいと言うより、寂しく空しかった。

小川ローザは芸能界から身を引いてイタリアに渡り、ファッションの仕事についた。その後帰国。今も元気にされていることは知っている。

ときどき、ふと「会いたい」といった気持ちが過ぎることもあるが、その度に抑えている。「素晴らしい思い出をそのままにしておきたい」という気持ちがそうさせるのだろう。きっと、、。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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