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2025.07.06

今は不穏な空気に包まれているLA、カリフォルニアで、僕が過ごしたハッピーでかけがいのない時間

筆者が初めてLAに降り立ったのは61年前。フレンドリーな人々に囲まれハッピーな時間を過ごした思い出の街が、いまは不法入国者をめぐる問題で不穏な空気に包まれています。明るく平和なビーチが1日も早く戻ってくるように祈りを込めて。

BY :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
CREDIT :

イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第261回

60年前のLAは平和でハッピーだった‼

イラスト 溝呂木 陽 60年前のLAは平和でハッピーだった!!
LAを中心にしたカリフォルニアは、今、不穏な空気に包まれている。デモがあちこちで起き、それに対峙する多くの警官と警察車両が動員されている。

LAが、カリフォルニアが大好きな僕には、このところ連日のようにTVニュースで流されるこうした光景は、とても悲しく、見るに堪えない。

僕が初めてLAに降り立ったのは1964年。61年前のこと。オレンジ色の夕陽に包まれた海も山も街も、美しく暖かく輝いていた。
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僕はサンタモニカをベースに1カ月ほど滞在したが、不快に感じたこと、怖いと感じたことなど1度もなかった。

嘘だと思うかもしれないが、ほんとうだ。人々はフレンドリーだし、多くのところで、見知らぬ日本人を温かく迎えてくれた。

サンタモニカの隣りの、ベニスに住んでいた日本の友人をまずは訪ねたが、頼る気はまったくなかった。来た以上は挨拶くらいはしなければ、、と言うことで訪ねた。

彼は僕よりひと回りほど年上で、バイク好きの知り合いから紹介された。優秀な工業デザイナーで、ヤマハYA-1やヤマハYD-1のデザインにも中心人物の一人として関わっていた。

そんな彼が、さらに前に進もうとアメリカに渡り、当時から「アートの町」と言われていたベニスに居を構えた。

彼はまず、サンタモニカに住む50歳くらいの女性を紹介してくれた。「なにか困ったことがあったら彼女に相談しろ。必ずいい答えを出してくれるから、、」ということだった。
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とても明るく親切な女性で、拙い英語しか話せない僕に、嫌な顔ひとつせずに接してくれ、話を聞こうとしてくれた。

彼女はNASAで要職についていた最愛のご主人を、半年ほど前に亡くされたばかり、、と、友人から聞いたが、同時に「もう立ち直っていると思うよ!」とも言われた。

僕の英語力ではお悔やみを言いたくても、うまく言う術がなかった。なので、友人に代弁してもらったのだが、「ありがとう! でも、もう大丈夫よ!」と、笑顔で返してくれた。

彼女はサンタモニカ ピアから近い一軒家に住んでいた。そこで毎週のように、週末の夜のパーティーが開かれ、僕も呼ばれた。

日本でもパーティーには時々顔を出していたが、あまりパーティー好きとは言えなかった。

でも、彼女の家でのパーティーはすぐ好きになった。集まる人達は特に着飾るでもなく、ほとんど普段着のまま。それに招待されていない人でも、彼女は笑顔で迎え入れた。
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そして、知らない人たちがすぐ笑顔で話し始め、楽しそうに踊り出す。彼女の家のパーティーに参加した人達はみんな、以前からの知り合いのように、なんの壁も無い友達になる。

日本人は僕一人だったが、壁はまったく感じなかった。GFを紹介してくれて、「彼女と踊って!」と言ってくれた人も何人もいた。

「僕、ダンス下手なんです」、、と言っても、「大丈夫だよ。音楽に合わせて、身体を動かしていればいいんだから、、」と、背中を押す。女性も、「さあ、踊りましょう!」とニコニコしている。

そんなやりとりをしていると、パーティーのホストの彼女が来て、僕を紹介し、彼や彼女たちを紹介してくれる。

すると、電話番号を書いたメモを渡してくれて、「オレの家にも遊びにおいでよ。親父やお袋も歓迎すると思うよ!」と誘ってくれる人もいた。

このパーティーで、僕はサンタモニカに多くの友人ができた。そして、彼ら、彼女らの家でのパーティーやピクニックに誘われた。
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「サンタモニカの人たちって、なんて優しくて親切な人たちばかりなんだろう、、」。僕は、ちょっと信じられない思いだった。

そんなこともあって、僕のサンタモニカ通いは始まった。前にも話したが、カリフォルニアやアリゾナの沙漠が好きなことも加わって、多い時は年に3~4回は行った。

僕に多くをくれたサンタモニカの女性を、僕は東京に招待した。僕の家に泊ってもらい、東京を案内した。

幸い、父が英語に堪能で、よく時間をとって付き合ってくれたので、彼女も、大いに東京を楽しんだはずだ。

LAに行けば足は当然クルマ / レンタカーということになる。僕が初めて行った時に借りたのはマスタング 2ドア HT。ほんとうに乗りたかったのはV8のコンバーチブルだったが、僕の財布では到底届かなかった。

この時が、初めての海外での運転だったが、なぜか、まるで不安もなかったし、緊張もしなかった。
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モーテルの近くのレンタカー屋で借りたが、僕の財布で借りられるのは6気筒のマスタングHTで精一杯だったのだ。

でも、お気に入りのイエローのボディカラーもあったし、「マスタングでLAを走れる夢」が叶っただけで大満足!

6気筒 2.8ℓエンジンは 120馬力で、ATも3速。アメリカ車らしい豪快な走りは望むべくもなかった。それでも、日本の小型車より当然ガソリン消費は多い。なので、ガソリン代が心配だった。

だが、当時のアメリカのガソリン価格は「1ガロン/30セント」ほど。日本円で1リッター/15~20円程度だった。これは助かった。

ちなみに日本のガソリン代はといえば、たしか、1リッター/50円程度だったと思う。

細い3本スポークと細いグリップの華奢な、、でも、オシャレなハンドルはパワーアシスト付き。とても軽い。
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1959年当時には、僕のGF(1962年に結婚)の家には、すでにビュイックが、次いでオールズモビルがあり、僕もよく運転させてもらっていた。なので、アメリカ車の運転感覚は十分身についていた。

生まれて初めての右側通行にも、すぐ馴染んだ。右側通行を意識しながらの運転は2日間くらいだけだったと思う。

また、当時のLAはドライバーのマナーもよく、街中の道路では、ほとんどのクルマが制限速度を守っていた。

車間距離もゆったりしていたし、ルールも守っていた。だから、初めての右側通行でも、怖いと感じたことは皆無に近かった。

「あそこには行かない方がいいよ」と注意された場所も何箇所かあったが、それを守ったので、危険なめに遭ったこともなかった。

とにかく、LAは僕にとって天国だった。そんなLAが、カリフォルニアが、、今は不法入国者問題で大揺れしている。
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多くの警官が、警察車両がバリケードを張り、直接的な行動は起こしていないが、州兵までも動員されている。当然、こうした混乱に乗じた略奪や破壊行為も起こっている。

TVには、とかくセンセーショナルな映像が映し出されることが多いが、LA通の友人から「実際にはそれほどひどくはないよ」と聞きホッとしている。

でも、ドジャースの試合を、大谷の活躍を観に行った人、行こうとしている人達等、旅行者等は、かなりの影響を受けているようだ。

不法入国者の問題は尾を引きそうだが、いずれにしても、僕が大好きだった、天国だと思っていたLAに、カリフォルニアに、早く平穏が戻ってほしい。

若い頃に知り合い、僕に多くのハッピーな思い出を残してくれたLAの友人も、当然高齢になっているし、亡くなった人も多い。

LAではなくニューポートビーチの住人だが、家族ぐるみで付き合っていた「一生の友」ご夫妻も今は亡い。
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でも、LAが、カリフォルニアが、与えてくれた、ハッピーでかけがいのない時間が、僕の心から消えることはない。

溝呂木さんには、大好きだったサンタモニカビーチの絵を描いて頂くことにした。

底抜けに明るく平和なビーチに象徴されるような日々が、LAにカリフォルニアに、1日でも早く戻ってくることを願って止まない。
岡崎宏司(自動車ジャーナリスト)
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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