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2020.04.19

日本カー・オブ・ザ・イヤー前史。HONDA、日産、マツダの名車たち

1970年に始まった「カー・オブ・ザ・イヤー」の歴史。その初代選考委員に、自動車界の権威に混じり、若き日の筆者の姿があった。感性でクルマを語る、希有な存在感は当時もいまも変わらない。その筆者が語る、カーオブザイヤー黎明期の思い出。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第132回

日本カー・オブ・ザ・イヤー 前史  

「日本カー・オブ・ザ・イヤー」、通称COTYの歴史は1980年から始まっている。

僕も初めから審査委員を務めさせて頂いたが、ある時から、わけあって徳大寺有恒さんと共に退くことにした。その後は第3者として審査結果を見ているが、毎年、楽しみにしている。

ところで、日本カー・オブ・ザ・イヤーは上記のように1980年から始まった。が、その母体になったイベントは1970年に生まれている。

モーターファン誌が主催した「 Car Of The Year 」がそれだ。

選考委員は、当時の自動車のテストでは、もっとも権威のあった「モーターファン・ロードテスト」を担当するメンバーが中心。

そこには、日本の自動車産業に大きな影響力を持つ自動車工学関係の高名な研究者が多く参加されていたが、その方々が選考委員の中心になった。

加えて、同誌に寄稿していたライターも少数加わった。その中の1人に、まだ駆け出しの僕が選ばれたのはとても名誉なことだった。

僕の主な役目は「官能評価」。日常領域から限界領域までクルマを走らせ、身体で、五感で感じたことを評価、言葉にすることだった。

モーターファン・ロードテストは、 試験場でとったデータを中心にしたものだが、それだけでは読者には難しい。なので、生身の人間が五感で感じたことを、わかりやすい言葉で説明するのが僕に与えられた役目。

「若い走り屋?」の僕が、自動車工学界の高名な研究者、、一流大学に研究室を構える教授を中心にした方々、、の中に入って意見を述べるのは勇気の要ることだった。

しかし、先生方は優しく迎えて下さったし、「ヤンチャな走りの結果の意見」にも耳を傾けて下さった。

いや、定常的なデータ採りからは出てきにくい「官能」部分の評価に、むしろ興味を持って頂けたのだ。嬉しかったし、有り難かった。

そんなことで、若造ながら、僕は「モーターファン・ロードテスト」の一員に加わらせて頂くことになり、それまでは雲の上の人だった高名な先生方とも交流を持つことになった。

その流れの中で、多くの大学との接触も増え、さらには、国交省を初めとした官公庁との接触も増えてゆくことになったのだ。
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モーターファン「Car Of The Year」の、10年の選考結果にも触れておこう。

大きな記念碑になる第1回、1970年イヤーカーの栄誉を獲得したのは、「日産スカイライン 2000GT 2ドアハードトップ」。

4ドアのホイールベースを70mm短縮して2ドア・ハードトップ化したもの。スタイリッシュになっただけではなく、運動性能も向上した。

GT-Rは全モデルが2ドア・ハードトップになり、当時のクルマ好きの憧れを一身に受けた。日本自動車史に輝く名車と言っていい。

第2回、1971年のイヤーカーは、「マツダ・カペラ・ロータリークーペ」。パワフルなロータリーエンジンを積み、俊足を誇った。すでに書いたが、マツダに依頼され、LA⇔NYを往復したクルマだ。「風のカペラ」というキャッチコピーそのままの、静かな、爽やかな、そして速いクルマだった。

1972 年は「ホンダ・シビック 1200GL」がグランプリを獲得。デザインを含めた、ベーシックカーとしての高い総合力が評価された。

そして、1973年、1974年もシビックが連続してイヤーカーのタイトルを獲得。

73年は「スターレンジ」=無段変速機が評価され、74年は低公害エンジン「CVCC」が評価されてのグランプリだった。

しかし、基本を同じくするクルマが、3年連続イヤーカーを獲得したのは後にも先にもシビックだけ。これからもまずあり得ないだろう。

ちなみに、マスキー法や、73年の第一次オイルショックで、自動車業界が大きな困難に直面していた中、CVCCシビックは世界的大ヒット作になったことを書き加えておこう。

シビックは、世界中の雑誌や機関、団体から、数年に亘り、多くの賞を受けた。3年連続でイヤーカーに推した、われわれ審査委員の判断は間違っていなかったということになる。
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1975年は「マツダ・コスモAP」が、1976年は「アコード 1600 EX」がイヤーカーに輝いた。
とくに、アコードは、「カッコよし」「走ってよし」「乗ってよし」と、3拍子揃っていた。

シビックとアコードによって、ホンダは4輪メーカーとしての確固たる地位を固めた。

1977年は「ダイハツ・シャレード」。3気筒エンジンと、コンパクトで居住スペースの広いボディの組み合わせは非常に先進的だった。

1978年は「マツダ・サバンナRX-7」が受賞。ロータリー・エンジン車としてのひとつの完成形であり、日本では、長くサーキットを席巻し続けてきたスカイラインGT-Rを王者の座から引きずり下ろした。

1979年のイヤーカーは、「日産セドリック/グロリア 2000 ターボS」。高性能と省燃費を目指す新たな技術としてのターボ過給を搭載した日本初の量販車、、が、受賞の理由だった。

上記の10年を以てモーターファン誌主催の「Car Of The Year」は終了。以後は、自動車専門誌を主体にした媒体で構成された「日本カー・オブ・ザ・イヤー」実行委員会にバトンは渡され、今日に至る、、ということになる。

最近、新型のFITに乗ったが、これがなかなかの仕上がり。シビックの3連覇を思いだした。同時に、「今年のイヤーカーはFITかもしれないな」との想いが頭を過ぎった。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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