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2019.05.18

7歳の少年が初めてのお年玉を握り向かった先は…

1940年生まれの筆者が、小学校1年生のときはじめて貰ったお年玉を握り向かった先は、バスだった。終戦後まもない東京の風景とは少年だった岡崎氏にどう映ったのか?

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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第95回

生まれて初めてのお年玉の使い途。 

僕は昭和15年=1940生まれ。太平洋戦争への日本参戦が1941年、終戦が1945年だから、
戦争の影響の直撃を受けた子供時代だった。

そんな僕の小学校入学は1947年。終戦から2年後のこと。幸い僕の住んでいた地区の小学校は戦争の被害を受けておらず、まともな小学生生活がスタートできた。幸いだった。

が、今回の話は学校のことではない。
小学1年生の時に初めてもらった「お年玉」の話だ。

戦争の最中でも、お正月や誕生日には、なんらかのお祝いはもらっていた。たぶん、飴とかお菓子の類だったように思う。かすかだが、そんな記憶がある。

しかし、「お小遣い」をもらったのは小学1年生のお年玉が初めて。ハッキリ記憶に残っているのは、よほど嬉しかったからだろう。なんとなく一人前になったような気がしたのかもしれない。
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いくらもらったかは覚えていないが、自分で使えるお金を持ったのは生まれて初めてのこと。何に使うか、、一生懸命考えたのだろう。

で、出した答えが「バスに乗る」だった。
バスは家族とはよく乗っていたが、自分のお金で「一人で乗ろう!」と考えたようだ。

当時の家の近くから、東京駅行きのバスが出ていた。片道1時間ほどかかるが、往復2時間の冒険旅行を決断するには、きっと勇気が要ったはず。もちろん親には内緒だ。

「友達の家に遊びに行ってくる」とでも言って家を出たのだろう。たぶん正月の3日か4日のことだったと思う。

当時のバスは米軍から払い下げられたトラックを改装したものが多かった。米軍の軍用トラックもまだ多く走っていた頃だから、当然その姿は見慣れている。
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で、改装したバスだが、客室部分こそ別物だったが、フロントのボンネット部分はほとんどが米軍軍用トラックのものをそのまま受け継いでいた。

アメリカに対して、戦争で負けた国といったネガティブな気持ちは、子供の僕にはまったくなかったのだろう。アメリカにはただ単純に憧れの気持ちしかなかったと思う。

だから、今、米軍トラック改のバスの写真を見るとひどくカッコ悪いと思うが、7才の僕にはとてもカッコよく見えたのだろう。

親と乗るときもそうだったが、運転席の後ろに立って乗るのが常だった。運転を見るのが好きで、運転を覚えようとしていたからだ。

当時は、7才の子供が一人でバスに乗ることはあまりなかったはず。いや、ほとんどなかっただろう。

それも、まったく席には座らず、運転席を囲むように作られたガードバーに掴まって立ちっぱなし。当然、運転手さんも車掌さんも気になったようで、声をかけてきた。

「坊や、ひとり?」「どこへゆくの?」等々聞かれたと思うのだが、たぶん、僕はハッキリ答えたはず。

「ひとりだよ。お年玉もらったら、ひとりでバスに乗ろうと決めていたの」「運転手さんの後ろで見て運転を覚えたいの、、」といった返事をしたのではないかと思う。

「大人になったら、バスの運転手になりたい、、」みたいなこともきっと言ったはずだ。

で、東京駅に着いてもバスから降りず、帰りの料金を払って、帰路の1時間も運転席のガードバーに張り付いたままだった。
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幸せな2時間はあっというまに過ぎた。でも、2時間だけでは十分に満足はできなかったのだろう。お年玉もまだ残っていた。

そこで、僕は続けてもう一往復乗ることにした。運転手さんも車掌さんも交替しなかったと思うのだが、「坊や、まだ乗るの?」「お父さん、お母さん心配しないかな?」などと気遣ってくれたような記憶がある。

「夕方まで友達の家に遊びに行くって言ってあるから大丈夫だよ」、、、たぶん、僕はこんな返事をしたに違いない。

怒られてもおかしくないが、運転手さんも、車掌さんも優しかった。そして、「乗っていてもいいよ」と言ってくれた。

それだけではない。「お金は払わなくていいから」、「お菓子でも買いなさい」と言ってくれたのだ。

70年以上経った今でも、この「冒険」のあれこれは(むろん断片的ではあるものの)かなり記憶に残っている。7才の僕にとっては、「大いなる偉業!?」だったからだろう。

僕が小学校高学年になった頃からは、9才年上の兄の運転するクルマにはよく乗せてもらっていたが、やはり、運転の仕方ばかりに興味は向いていた。景色を眺めることなど、ほとんどなかった。

そのせいか、12才で初めてクルマを運転したときも、すぐ、ほんとうにすぐ運転できた。

広い空き地で、兄に運転させてもらった。クルマは、たしか、ダットサンだった。

身体が小さかったのはハンディだったが、座布団を腰に当ててなんとかしのいだ。

兄は、空き地での運転をよくさせてくれた。空き地の次のステップは、田んぼの畦道だったが、僕は難なくこなした。

16才で小型4輪免許の試験を受けたが、一発合格した。4年も練習してきたのだから当然だろう。以来63年、僕は大好きなクルマと共にハッピーな人生を過ごしてきた。

● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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