2026.01.23
【第39回】
直訳すれば「腐ったチーズ」。うじ虫が蠢き、飛び跳ねる“違法”なチーズを食べるイタリア人がいる⁉
イタリア生まれのフード&ライフスタイルライター、マッシさん。世界が急速に繋がって、広い視野が求められるこの時代に、日本人とはちょっと違う視点で日本と世界の食に関する文化や習慣、メニューなどについて考える連載です。
- CREDIT :
写真/スガイ マッシミリアーノ 編集/森本 泉(Web LEON)
サルデーニャ島の伝統食、「カース・マルツゥ(Casu Marzu)」を知っていますか?
「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)でおなじみのマッシさんが、今回はイタリア人でさえ決して口にしようとしない“世界一危険なチーズ”についてお話しします。

▲ これが「カース・マルツゥ(Casu Marzu)」だ。
イタリア料理と聞いて、読者のみなさんが思い浮かべるのは何だろうか。香り高いポルチーニのリゾットか、太陽を浴びたトマトのパスタか、濃厚なゴルゴンゾーラチーズだろうか。イタリア人は食に対して異常なほどの情熱と誇りを持っている。世界で一番美味しいものを知っているのは自分たちだ、と本気で信じている国民だ。
だけど、そんなイタリア人でさえ、その名を聞いただけで顔をしかめて後ずさりし、決して口にしようとしない「闇のチーズ」が存在する。あれをチーズと呼んでいいのかさえ、僕にはわからない。それは、サルデーニャ島の伝統食、「カース・マルツゥ(Casu Marzu)」だ。
直訳すれば「腐ったチーズ」だよ? この身も蓋もないネーミングが、すべてを物語っている。読者のみなさんのような、世界中の美食を食べ尽くした経験豊富な人であっても、こればかりは躊躇するはずだ。なぜなら、このチーズは「生きている」からだ。比喩ではない。文字通り、無数のうじ虫がその中で蠢き、飛び跳ね、チーズを食い荒らしている状態で食べるものだからだ。
ギネスブックに「世界で最も危険なチーズ」として登録されたこともあるこのチーズは、欧州食品安全機関(EFSA)の衛生基準に真っ向から喧嘩を売っている。当然、販売は禁止。市場には出回らない。イタリア国内でさえ、法的には「違法」な存在だ。それでもサルデーニャの羊飼いたちは、まるで密造酒を守るかのように、このチーズを何世紀にもわたって作り続けて、愛し続けている。

▲ サルデーニャ島最大の町、カリアリの街並み。
皿の上で元気に動き回るうじ虫と対峙しながら口に運ぶチーズ⁉
製法は狂気じみている。まず、ペコリーノ・サルド(サルデーニャ産羊乳のチーズ)を用意する。ここまでは普通だ。だけど、彼らは熟成の段階で意図的にチーズの外皮をカットし、チーズバエを招き入れる。ハエはチーズに卵を産み付け、やがて孵化した数千匹もの幼虫がチーズを食べ始める。幼虫の体内で消化されたチーズの脂肪分は分解され、固かったペコリーノは、信じられないほど柔らかく、クリーミーなペースト状へと変貌する。サルデーニャ語で「ラグリマ(涙)」と呼ばれる琥珀色の液体が滲み出し、強烈なアンモニア臭を放ちながら、カース・マルツゥは完成する。
食べる時のルールも凄まじい。中の虫が生きているうちに食べなければならないのだ。なぜなら、虫が死んでいるということは、チーズが本当に腐って毒化している可能性があるから。つまり、皿の上で元気に動き回るうじ虫と対峙しながら、それを口に運ぶ必要がある。しかもこの幼虫たち、身の危険を感じるとバネのように体を曲げ、15センチほどジャンプして飛び出してくる。だから食べる時は、目を守るために手で覆うか、ゴーグルが必要だと冗談半分に言われている。
食べたことのある勇者に聞けば、その味は「舌が焼け付くようだ」という。強烈な辛味、鼻を突き抜けるアンモニアの刺激、そしてねっとりと舌に絡みつく濃厚なクリーム。口の中でプチプチと弾ける幼虫の食感……想像しただけで、背筋が凍るのではないだろうか。多くのイタリア人が「無理だ、金をもらっても食べない」と拒絶するのも無理はない。

▲ サルデーニャ島はカース・マルツゥ以外にも名物料理がたくさん。特にボッタルガ(からすみ)の名産地としても知られる。
カース・マルツゥは生だからこそ、その生命力が精力剤になる
ここまで読んで、「なんて野蛮なんだ」と思っただろうか。だけど、少し待ってほしい。ここで僕は、日本の友人である読者のみなさんに、ある事実を突きつけなければならない。
日本には「蜂の子」を食べる文化があるではないか! 長野や岐阜などの山間部では、クロスズメバチの幼虫を甘露煮にしたり、炊き込みご飯にして食べる伝統がある。僕から見れば、あれも十分にショッキングだ。白く柔らかな幼虫をご飯と一緒に口へ運ぶその光景は、カース・マルツゥを食べるサルデーニャ人と、本質的には何ら変わらないようにも思う。「蜂の子は加熱してあるし、美味しい」と日本人は言うだろう。サルデーニャ人はこう言い返す。「カース・マルツゥは生だからこそ、その生命力が精力剤になるんだ」と。これは媚薬としても信じられているのだ。
食文化とは不思議で、残酷で、面白い。ある土地では「汚物」とされるものが、別の土地では「至高の珍味」として崇められる。カース・マルツゥが生まれた背景には、貧しさの中で決して食べ物を無駄にしないという、羊飼いたちの執念があったはずだ。失敗して虫が湧いてしまったチーズでさえ、貴重なタンパク源として受け入れ、長い時間をかけてその独特の風味を愛するようになった。そこには、現代の衛生観念では計り知れない、生と死、腐敗と熟成が一体となった、原始的な食のエネルギーがある。

▲ どれがうじ虫かわかるかな?
EUによって販売が禁止されても、サルデーニャの人々は「伝統食品」として保護を求め、今もこっそりと作り続けている。結婚式や特別な祝いの席で、知る人ぞ知る秘密のご馳走として振る舞われるのだ。「法律で禁止されているからこそ、より美味く感じる」あるサルデーニャの老人は、悪戯っ子のような目でそう語ったという。その感覚は、少しわかる気がする。
世界一腐ったチーズ、カース・マルツゥ。もしサルデーニャ島を旅して、地元の羊飼いに「ちょっと試してみるか?」と誘われたら、みなさんはどうするだろうか。うじ虫が飛び跳ねるそのスプーン一杯には、数千年の歴史と、人間の胃袋の逞しさが詰まっている。それを口にする勇気があるかどうか。それは、みなさんの美食への探究心が、理性を超えられるかどうかの試金石になるかもしれない。
僕? 僕は丁重にお断りして、普通のペコリーノと赤ワインを楽しむことにするよ。だって僕は、臆病で常識的な、ただのイタリア人なのだから。

● マッシ
本名はスガイ マッシミリアーノ。1983年、イタリア・ピエモンテ州生まれ。トリノ大学院文学部日本語学科を卒業し2007年から日本在住。日伊通訳者の経験を経てからフードとライフスタイルライターとして活動。書籍『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』(KADOKAWA)の他 、ヤマザキマリ著『貧乏ピッツァ』の書評など、雑誌の執筆・連載も多数。 日伊文化の違いの面白さ、日本食の魅力、食の美味しいアレンジなどをイタリア人の目線で執筆中。ロングセラー「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)は145万PV達成。
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