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2019.08.30

新宿・歌舞伎町はなぜ東洋一の歓楽街になったのか?

明治時代、誕生当時の新宿駅は貨物中心の小さな田舎駅だった。それがどのように、東洋一の歓楽街に発展したのか? その歴史の秘密を『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(橋口敏男著・平凡社新書)から探った。

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文/印南 敦史(作家・書評家) 

記事提供/東洋経済ONLINE
写真/shutterstock
1日の乗降客数約350万人と、ギネスブックに認定されていることでも有名な新宿駅。構内の複雑さから「迷宮」とも呼ばれるが、いずれにしても新宿は、この駅を中心として大きな発展を遂げてきたわけである。

ところが『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)の著者、橋口敏男氏によれば、明治時代の誕生時には貨物が中心で、乗降客はまばらな田舎の駅だった。それが京王線や小田急線といった郊外電車の開通、あるいは関東大震災を契機として発展を続け、昭和の初めに日本一の駅へと成長したというのだ。

橋口氏がそこまで新宿に精通していることには理由がある。長らく新宿区役所で、まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長などを務めてきたのだ。2016年には公益財団法人新宿未来創造財団に移り、新宿歴史博物館館長に就任している。
本書では、新宿駅や駅とともに発展してきた東口や歌舞伎町、西口などの街の歴史を辿るとともに、歩いて街に残る歴史の痕跡を探ります。(「はじめに」)
『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
新宿駅誕生にまつわるエピソードや、新宿を拠点としたサラリーマンの暮らし、新宿の街ができるまでの歴史、新宿に集った女優・芸術家・文化人の話など、多岐にわたった内容。

今回は第4章「歌舞伎町の謎」に焦点を当て、知られざる歌舞伎町の秘密を明らかにしたい。
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歌舞伎町には川が流れていた?

「東洋一の歓楽街」として知られる歌舞伎町だが、かつては西武新宿駅の北側辺りを水源とする蟹川という川が、歌舞伎町1丁目と2丁目の境である花道通りを流れていたというのだから意外だ。

森があり、池があり、川がある街だったというのだ。とはいえ当時はまだ歌舞伎町という名前もなく、新宿三丁目と同じく角筈(つのはず)と呼ばれていた。

そののち、大正9(1920)年に現在の都立富士高等学校の前身である府立第五高等女学校が東宝ビルの場所に創設され、関東大震災以降には少しずつ住宅も建ち始めることに。しかしそれらも、昭和20(1945)年の空襲ですべてが灰と化す。

そこで立ち上がったのが、角筈北町会の町会長だった鈴木喜兵衛だ。敗戦の知らせを疎開先の日光で聞いた鈴木は日本の将来を見据え、「観光国家こそ各国に憎まれる心配もなく、敗戦国日本の生き延びる道だ」と考え、同じ町会の人間を説得。「計画復興」を提案する。

計画復興とは、復興協力会をつくり、借地権を一本にまとめ、土地を自由にすることを地主から任せてもらい、都市計画で新しく道路をつけなおし、区画を整理してから、地割して建築させようというもの。世間がまごまごしている間に、道義的な繁華街に仕立てようという計画である。

かくして8月23日には、復興計画書を町会員に発送。10月の半ばごろには、東京都の石川栄耀都市計画課長と計画に関する具体的な打ち合わせを行ったというのだから、かなりのハイペースで事を進めたことになる。
「今まで災害のあった都市で、理想的な復興計画を樹(た)ててもとかく土地問題が錯綜して、なかなか理想の計画が実現できなかった。ここは幸い土地問題の解決ができているから、芸能広場のある理想的な文化施設の計画を樹てよう。」ということになり、計画したのが、現在のアミューズメントセンターの歌舞伎町です。(P138)
『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
ちなみに初期の計画では、大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、その他ホテル、公衆浴場を配するというものだったという。かくして74年前、現在の歌舞伎町の原点ができあがったのである。
写真/shutterstock
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歌舞伎町の名付け親は?

歌舞伎町の名付け親は、上でも名前が出た東京都の石川都市計画課長。「歌舞伎劇場ができるなら、歌舞伎町と名付けよう」ということから、昭和23(1948)年に角筈1丁目の北半分とその北に隣接する東大久保3丁目の一部を併合して成立したのだった。

10月23日には第1回復興協力会総会が開かれ、鈴木はこんなあいさつをしている。
「皆さんと協力して道義的繁華街の建設をいたしたいと念願している次第であります。しからば道義的繁華街とは何ぞやと申しますと、(中略)物を売るにもお客様の立場になって商売をする。私はこれを道義商道と思い、この道義商道に基づく繁華街を皆様とともに建設したいのであります。(中略)
地主さんには既にお願いしてありますが、建設が終わるまで、地代は安くしていただく。そうして建設ができたら、吾々から進んで地代を上げていただく。地主も借地人もお互いの立場を理解しあって、親子兄弟のような関係で賃貸借がいたしたいのです。」(P139〜140)

『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
お客様の立場になって商売をする「道義的繁華街」にこだわっているところからは、鈴木の熱意がはっきりと確認できる。いずれにしてもわずか20日あまりで地主の協力を得、借地権の解放の見通しをつけ、計画を実行できるようにしたのだから大したものだ。

しかも鈴木は6年間に7回の引っ越しをし、娘婿の家や友人宅の押し入れ、事務所に寝たりしていたのだという。そればかりか、その後に建てた自宅も、郷里の家屋敷も信州の別荘地も処分している。

なかなかできることではないが、こうした情熱が歌舞伎町を生み出したのだと考えれば、これからの歌舞伎町が目指すべきものも見えてくるのではないだろうか?
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コマ劇場の「コマ」の意味とは?

昭和31(1956)年、歌舞伎町に新宿コマ劇場が完成する。現在のゴジラがいる東宝ビルの場所にできた、座席数2000を超える都内最大級規模の劇場である。こけら落としには、映画『オクラホマ!』が上映された。

ところで、コマ劇場の「コマ」とは何を意味するのだろうか?
コマ劇場の由来は、三段の円形舞台がコマのように回りながらせり上がる仕掛けが施されていることによるものです。コマ劇場ができたときには、周辺の住民におもちゃのコマが記念品として配られました。(P142)
『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
当初の計画にあった歌舞伎劇場は残念ながらできなかったものの、鈴木は芸能施設の誘致を働きかけ続けた。その結果、東宝を説得して誕生したのがコマ劇場だったというわけだ。

ご存じのとおり、コマ劇場は歌舞伎町のみならず新宿のシンボル、ランドマークとなった。昭和33(1958)年には、第9回紅白歌合戦も開催された。

また、美空ひばりや北島三郎といった演歌界の大物が出演したことから「演歌の殿堂」とも呼ばれていたが、一方、ミュージカルやボリショイ劇場バレエ団、宝塚歌劇など多彩な興行も行われていた。

そのかいあって、新宿コマ劇場は開設以来4000万人以上の観客を集めた。しかし施設の老朽化もあり、歌舞伎町再開発の一環として平成20(2008)年に52年の幕を閉じている。

その後、地上30階地下1階の新宿東宝ビルとして復活したのは平成27(2015)年のこと。ビルの8階部分には先述のゴジラヘッドができ、歌舞伎町の新たなシンボルとなったわけである。なお、昼の12時から夜の8時まで1時間おきにゴジラがほえる新宿東宝ビルには、最新のシネコンであるTOHOシネマズ新宿やホテルグレイスリー新宿が入っている。かつて鈴木喜兵衛が目指した「道義的繁華街」に近づきつつあるということだ。
歌舞伎町は都市計画に基づいてつくられたため、道路には大きな特徴があるのだそうだ。
歌舞伎町のタウンデザインは、T字路で町内を構成するという斬新なものでした。道の入り口に立てば正面に店が見え、しかし、次の空間はそこまで行き右折、あるいは左折しなければ見えてきません。このため、人は自然と街に引き込まれていきます。(P145)
『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
確かに現在の歌舞伎町の地図を確認してみても、T字路が多いことに気づかされる。つまりはこうした複数のT字路の組み合わせによってできあがった迷路のような空間が、人をわくわくさせる活力を生み出したということだ。
写真/shutterstock
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歌舞伎町の噴水はなぜ閉鎖された?

レインボーガーデン(現在のシネシティ広場)の中央に噴水があったことを覚えている方も少なくないだろう。噴水にはレインボーガーデンの名にふさわしく7色のスポットライトが当たり、4種の大きなプランターが飾られていた。

そして昭和48年には名称が「ヤングスポット」に変更され再整備。その際にも噴水は残っている。
当時、東京6大学野球は、現在では想像もつかないほどの人気がありました。早慶戦の後は、早稲田大学の学生が歌舞伎町のヤングスポットに集まり、朝まで大騒ぎしていました。学生が柱に登り、池に飛び込んだため、池はいつの間にか埋め立てられてしまいました。(P146)
『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)より
その後、平成の時代になると、ヤングスポットにはホームレスが住み着くようになる。雰囲気も変わってしまったため、誰もこない広場を再生しようと、新宿が映画の街であることに合わせて平成19(2007)年にシネシティ広場として再整備。
さらに平成28(2016)年には中心にあった段差をなくし、完全にフラットな広場となったのだ。

個人的にも、新宿は思い出深い街だ。母親に連れられて西口の小田急デパートや京王デパートに行った幼児の頃には、寝っ転がって怪しい袋を口に当てているヒッピーの姿に恐ろしさを感じたことがあった。

それから10数年後には歌舞伎町のディスコへ行くようになり、不器用な恋愛と失恋を繰り返したりもしていた。

そうした記憶の断片がまだ頭に残っているからこそ、乱雑な新宿はどこか愛しいのだ。そのせいか、新宿の知られざる部分を明かしてくれている本書も、とても興味深く読むことができたのだった。

『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)
著者/橋口敏男 本体920円+税

当記事は「東洋経済ONLINE」の提供記事です

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