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2022.03.31

【vol.16】北大路魯山人/前編

破天荒の巨人・北大路魯山人とはどんな男だったのか?【前編】

いい大人になってお付き合いの幅も広がると、意外と和の素養が試される機会が多くなるものです。モテる男には和のたしなみも大切だと、最近ひしひし感じることが多いという小誌・石井編集長(48歳)が、最高峰の和文化体験を提供する「和塾」田中代表のもと、モテる旦那を目指す連載 です。

CREDIT :

写真/トヨダリョウ 文/井上真規子 取材協力/ダイナースクラブ(運営会社:三井住友トラストクラブ)

かねてから「和のたしなみを学びたい!」と熱望していた石井洋編集長が、和の達人から様々な知識と心得を伝授してもらう連載「モテる旦那養成講座」。案内役は、本物の日本文化体験を提供する「和塾」の田中康嗣代表です。

第16回目の今回は、書、篆刻、陶芸、美食と幅広いジャンルに精通し、多くの人々を魅了し続けてきた北大路魯山人。マンガ「美味しんぼ」の海原雄山のモデルになった人物としても知られています。

その人生は、波乱に満ちたものでした。幼少期の不幸な生い立ちを跳ね除けるかのように、芸術に身を投じ、自らの理想と欲求を追求し続けた魯山人の器の大きい生き様には、男として生きていくうえで参考となる、たくさんのヒントが隠されています。

そんな魯山人の世界へ導いてくれるのは、生前に親子二代で魯山人と深い親交を持っていた黒田陶苑社長の黒田草臣さん。魯山人の遺伝子を色濃く受け継ぐ料亭「紀尾井町 福田家」を舞台に、黒田さんから知られざるエピソードをたっぷりと伺います。魯山人が愛した器と美食に舌鼓を打ちながら、真のダンディズムを学びましょう!
田中 今回は、料理家、美食家、陶芸家として知られる北大路魯山人の世界を学んでいただきます。日本の焼ものや食文化を知るうえでは、忘れてはならない人物ですね。

石井 あの魯山人ですね!  現代の日本料理の基礎を築いたといわれる人ですよね。

田中 そうです。彼女とデートで割烹に行って、魯山人の器が出てきたら、さらっと小咄ができたりすると素敵ですよね。そしてその功績もさることながら、本人の生き方がある意味カッコいい。損得考えずに自分のやりたいことをとことんやって、しかもきちんと結果を残している。そういう生き様は、オヤジとして生きるうえでも参考になるのではないかと思います。

石井 究極のダンディズムと言えるかもしれませんね。とても楽しみです。で、こちらのお店は?

田中 「紀尾井町 福田家」という料亭です。魯山人のDNAを受け継ぐお店で、魯山人が作った2000点以上に及ぶ器を所有し、しかも実際に料理を出す際に使用しているという今や唯一のお店と言ってよいでしょう。今日は編集長に魯山人の器で料理を楽しんでもらいます。
石井 ワクワクしてきました!  しかも紀尾井町にこんな素敵な割烹があったなんて知りませんでした。知る人ぞ知る、という佇まいですね。

田中 そうですね。そして、今回は魯山人と生前深い親交をお持ちだった方もお呼びしていますので、たくさんお話を伺いましょう!
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子供に優しく、威張った大人を嫌った魯山人

▲ 黒田草臣さん(左)。
田中 黒田さん、本日はお越しいただきありがとうございます! こちらが石井編集長です。魯山人から真のダンディズムを学ぶべく、たくさんお話を聞かせていただけるとうれしいです。

黒田 渋谷「黒田陶苑」と京橋「魯卿あん」で陶磁器を中心とした美術品の店を営んでおります黒田草臣と申します。私は幼少の頃から魯山人が亡くなる高校時代まで、従弟も住んでいた星岡窯(ほしがおかがま)へよく遊びにいっておりました。
石井 さっそく、すごい逸話が……。家族ぐるみでのお付き合いだったのですね。

黒田 魯山人は「星岡茶寮」という会員制料亭をやっていたことで知られていますが、その頃から私の父が交流を持つようになりました。

田中 「星岡茶寮」は、魯山人自らが腕を振るって料理を供し、各界の名士たちが集ったといわれる料亭ですね。魯山人とお父様の出会いは?

黒田 父から聞いた初対面の面白い逸話があります。「星岡茶寮」では、名士を集めて魯山人自ら書道講座を開いていたのですが、当時、陶器店で働いていて魯山人の芸術に興味があった父は、主人に頼み込んでそこに参加しました。すると魯山人が「書は手習いより、たくさん見て習うのがいい」と言ったので、会の後、恐る恐る「鵞堂流を習っていますが……」と申し出ると、180cm近くある魯山人がロイド眼鏡の奥から初対面の父を睨みつけ、「無駄なことだ!」と叱責したそうです。
石井 迫力たっぷりですね(笑)。

田中 魯山人らしいエピソードですね。
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黒田 その後、父は29歳の時に独立して日本橋に陶磁器店「黒田陶苑」を開くのですが、魯山人の好意で黒田家は魯山人の登窯前の第二参考館に引っ越します。この頃から父は魯山人窯の宣伝用小冊子作ったり、各地に旅行へ行ったり、一緒にいることが多くなっていきました。そんなことで父は魯山人の器を一手販売するようになりました。魯山人は当時鎌倉の星岡窯で陶芸に没頭し、自ら作品を作りつつ、大量の注文を引き受けてさばいていました。窯技員を瀬戸から招いたりして協力することもあったようです。

田中 いまも人気のある魯山人のさまざまな器が作られたのはその頃ですね。

石井 本当に仲が良かったんですね。魯山人のイメージって、海原雄山のキャラクターのせいもあるのかもしれませんが、才能がずば抜けているけど、偏屈で横柄といったイメージが一般的には浸透しているように思います。黒田さんの記憶ではどんな人物でしたか?

黒田 確かに、後年の人たちが彼のキャラクターを面白おかしく書き立てたせいもあってそんなイメージですね。でも終生いさかいを起こさずに付き合っていた人もおられます。「美味しんぼ」の海原雄山は、こだわりがすごく強いキャラクターとして描かれていますが、その部分については正しいのではないかと思います。

石井 魯山人と暮らしていた頃の思い出は、覚えていらっしゃいますか?

黒田 私が高校2年生の頃に魯山人は亡くなるのですが、それまではよく一緒に過ごしていました。子供にはとても優しい人でした。私が路地に咲いた雪柳を、竹竿で払い落として遊んでいると、駆け寄ってきて「おいおい。花にも命があるんだ。そんなことをしたらかわいそうだろ」と諭されたことがあります。自然を愛し、花卉や小さな生き物が好きで、いつもスケッチをしていました。「昨日も同じものを描いていましたよね?」と話しかけると、「毎日、同じと思うのかね。すすきも、すすきに来る虫も、毎日違うんだぞ」と諭されました。
石井 そういう一面もあったんですね。

黒田 一方で、威張っている大人が大嫌いで、「星岡茶寮」に来るお偉方でも閉店時間が過ぎたらとっとと帰らせてしまうという一面もありました。

田中 肩書きや人の顔色を見て、扱いを変えるということはしなかったのですね。

石井 そういうところが、偉い人からは生意気に映ったこともあったのでしょうね。

黒田 ただ、確かにこだわりの強さは普通ではなかったと思います。「手間ひまかければよいというものではない。肝心かなめの美意識や美的感覚が低くてはダメだ」というのが魯山人の口癖でした。当意即妙の連続です。器なども思いついたら、一気呵成に作り上げていくのです。いつも吊りズボンに丸縁眼鏡で、咳払いをしながら作業場を歩き回るものだから、職人さんたちは気が抜けなかった。目が厳しく、少しの違和感も絶対に見逃さないのです。「僕がひと削りするだけで、芸術品に早変わりする」と豪語したそうです。

【ポイント】

■「星岡茶寮」は、魯山人自らが腕を振るって料理を供し、各界の名士たちが集った伝説の料亭
■子供には優しく、自然を愛した
■肩書きや人の顔色を見て、扱いを変えることはしなかった

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つき出し文化を浸透させ、日本料理の基礎に影響を与えた

▲ 北大路魯山人(1954年/Wikipedia)
石井 魯山人は、美食家、料理家としてのイメージが強いのですが、書でも有名だったのですね。

田中 焼き物より書で先に世に名前が出たのです。15歳の頃から生計のために書をはじめ、25歳から篆刻(てんこく・石や木などの印材に字を刻するもの)、30歳から焼きものをはじめたといわれています。そして実は生い立ちがすごく不幸だったことは、あまり知られていませんね。

黒田 魯山人は、京都にある上賀茂神社の社家の次男として生まれます。士族の家柄でしたが、家庭はとても貧しかった。父親は魯山人が生まれる4カ月前に亡くなり、母親も生後間もない魯山人を比叡山を越えた坂本の農家に里子に出し、長男を連れて失踪してしまいます。その農家も貧しく、世話をせずに放置され、力なく泣いていた乳飲み子の股はおろか体中、赤くただれていたといいます。その後、5回も養父母が変わっています。
石井 そういう不幸が反骨精神を生んだのかもしれませんね。

田中 それはあると思いますね。有名な話に、魯山人が3歳の頃、養姉に連れられて上賀茂神社を散歩中、夕陽に生えた真っ赤なつつじに感動して、それが魯山人の美の原点になっているという逸話があります。

石井 はは〜。幼い頃から、芸術的な素養が芽生えていたという。伝説化されるのも頷けます(笑)。
黒田 20歳になった魯山人は、書家として身を立てるために京都から東京へ出てきて、親戚を頼って京橋に書道教室を構えます。22歳には芸術家・岡本太郎の祖父にあたる書家の岡本可亭に弟子入り、すぐに師匠を凌駕する人気を得るようになり独立。数年後には朝鮮と中国を巡って、書や篆刻を学び、さらに腕をあげていきます。帰国した魯山人は食客として、長浜(滋賀県)や京都、福井、金沢をまわって腕を磨いた時代があり、各地に見事な刻字看板、篆刻が残されていて、今でも現役で使われているものもあるのです。

田中 魯山人が花開いた時代ですよね。その一方で、魯山人は古美術品を蒐集するのが好きで、それを販売するために古美術店「大雅堂芸術店」を創業します。

黒田 36歳の頃ですね。京橋にある私の古美術店『魯卿あん』は、その跡地にあります。魯山人は店番をして店を空けられないため、自ら昼食を作っていたところにお客が来て、「美味しそうだから、お金を出しても食べたい」と熱望されます。それじゃあということで、魯山人が38歳の頃、店の2階に「美食倶楽部」という会員制の料理屋を開店します。桃山時代の織部や古瀬戸、古染付、古赤絵、オランダなどの茶碗や皿鉢類を使い、自ら腕を振るって料理の盛り付けまでやっていました。
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田中 「星岡茶寮」の前身ですね。こだわりがある人ですから、料理にも当然強いこだわりがあったのでしょうね。食材の産地とか、盛り付けとか、ひとつひとつに理由があった。

石井 現代の日本料理の基礎に大きな影響を与えたそうですね。

黒田 フランス料理にはオードブルがあり、中華料理には前菜があるのに、日本料理にはそれにあたるものがないと、自ら「付出皿」を制作して、珍味を盛る“付き出し”という文化を浸透させました。

石井 そうなんですね。それにしても、魯山人はいつから美食に目覚めたのでしょう。
黒田 最後の養家となる福田武造家で、6歳だった魯山人は家事を買って出たといわれています。そこで料理を独学で学んだようです。安い三等米を一等米の味に近づけるためにはどうしたらいい、肉の良否など、いかに料理を美味しくするかという試行錯誤を続けたのですね。「美食倶楽部」や「星岡茶寮」でも、米一粒でも大事にし、自分が美味しいと思ったものを出して人を喜ばしたいと思っていたようです。

田中 そして京橋の「美食倶楽部」は、美食を愛するお歴々の間で評判となり、二條公爵、徳川家達、久邇宮殿下など90人余りの会員が名を連ねたといわれています。本当にすごい方ばかりです。しかし、関東大震災で店舗は全焼。一時的に芝公園で店を開いたのち、現在のザ・キャピトルホテル東急がある赤坂で「星岡茶寮」開くことになるわけですね!

【ポイント】

■魯山人は生い立ちが不幸だった
■15歳の頃から書、25歳から篆刻、30歳から焼きものをはじめた
■岡本太郎の祖父に書を学んだ
■古美術品を蒐集するのが好きで古美術店「大雅堂芸術店」を創業した
■客の要望で2階に「美食倶楽部」という会員制の料理屋を開く
■自ら腕を振るって料理の盛り付けまで行った
■「つき出し」という文化を浸透させた
■料理は独学で、自分が美味しいと思うものを出すことに拘った
■ その後、赤坂で伝説の会員制料亭「星岡茶寮」を創業

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伝説の「星岡茶寮」は日本のセレブが集う最高に贅沢な空間だった

田中 「星岡茶寮」は、大正14年に創業されました。料理代は1人10円で、当時はとんでもなく高かった。その上、会員制で年会費も別でかかったというから相当です。

黒田 一年の会費10円のほかに当日10円です。最高級といわれた熱海の旅館「大野屋」でさえ、一泊二食つきで四円もあれば特上の部屋に泊れた時代です。

田中 僕は当時の会員名簿を入手したのですが、とにかくメンバーがすごいのです。大久保利通の孫とか、日本史の教科書に出てくるような名前がずらずら並んでいる。

黒田 星岡茶寮の会員になることが名士の勲章といわれ、銀行の頭取は会員になれても、副頭取はなれないなんて話もあったようです。
田中 ちなみにこれは、星岡茶寮が会員向けに作っていた「星岡」という会員誌。古本屋で探しまくって入手しました。昭和8年発行とあるから、魯山人が編集長をやっていた頃ですよ。

黒田 これは珍しい、よく見つけられましたね。

石井 雑誌も作っていたんですね!  本当に多才だなあ。

田中 色んな人に寄稿を頼んだり、エッセイ書いたり、すごくしっかり作られています。料理や器の話もしていますね。料理人募集の記事が出ていたりして面白い。料理を出しながら焼き物を創って、月間で雑誌作るって本当に大したものですよね。
黒田 たぬき鍋が美味しい話、フグをみんなで食べた話なんかも載ってますね。

石井 千疋屋の広告が入ってる(笑)。広告を入れてお金もらっていたんですね。

田中 黒田さんのお父様は、魯山人が発行していた会員誌「星岡」に、営んでいた古美術店「黒田陶苑」の広告を出されていたとか。読者層が超一流ですから、広告を出すかいもありますよね。
田中 料亭の方では利益がたくさん出たのですが、魯山人は古い陶器を好き放題に購入して金を使いすぎたため、経営側と対立し、結果的には星岡茶寮を追い出されてしまうんです。

石井 自分が作ったお店なのに、皮肉ですね。

黒田 その後、主に陶芸などを生業にして、こちらの福田家さんの創業にも携わることになります。

後編に続きます。

【ポイント】

■星岡茶寮は、大正14年に創業。会員費と料理代を合わせてとても高価だった
■日本史の教科書に出てくるような錚々たる人物が会員になった
■魯山人自ら「星岡」という会員誌を制作していた
■魯山人は多額の利益を使い込んで、最後は星岡茶寮を追い出されてしまう

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● 黒田草臣(くろだ・くさおみ)

1943年、鎌倉市生まれ。明治学院大学経済学部卒業。東京渋谷(株)「黒田陶苑」代表取締役。55年にわたり陶業に携わり、「北大路魯山展」「大備前展」など近現代陶芸家を中心とした展覧会、個展を数多く企画・プロデュースする傍ら、雑誌・単行本等で陶磁器に関する執筆・監修を行っている。著書に「美と食の天才 魯山人」(講談社)、「とことん備前」(光芸出版)、「魯山人おじさんに学んだこと」(晶文社)、「極める技  現代日本の陶芸家125人」(小学館)、「備前焼の魅力探求」(双葉社)、「名匠と名品の陶芸史」(講談社)、「終の器選び」(光文社)、「陶芸家列伝
魯山人おじさんに学んだこと」(講談社)などがある。

● 田中康嗣(たなか・こうじ)

「和塾」代表理事。大手広告代理店のコピーライターとして、数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め、2004年にNPO法人「和塾」を設立。日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行う。

紀尾井町 福田家

住所/東京都千代田区紀尾井町 1-13
営業時間/昼11:30-14:40、夜17:00-19:30(入店時間)
定休日/日・祝・土(月1回) ※夏季・年末年始休業あり
TEL/03-3261-8577
HP/紀尾井町 福田家~北大路魯山人の想いを~ 

和塾

豊穣で洗練された日本文化の中から、選りすぐりの最高峰の和文化体験を提供するのが和塾です。人間国宝など最高峰の講師陣を迎えた多様なお稽古を開催、また京都での国宝見学や四国での歌舞伎観劇などの塾生ツアー等、様々な催事を会員限定で実施しています。和塾でのブランド体験は、いかなるジャンルであれ、その位置づけは、常に「正統・本流・本格・本物」であり、そのレベルは、「高級で特別で一流」の存在。常に貴重で他に類のない得難い体験を提供します。

■和塾
HP/http://www.wajuku.jp/
■和塾が取り組む支援事業はこちら
HP/https://www.wajuku.jp/日本の芸術文化を支える社会貢献活動

<ダイナースクラブ会員限定特別イベント>
世界遺産 醍醐寺の観桜会

醍醐寺とダイナースクラブで取り組んでいる「文化財修復プロジェクト」の一環として行っている観桜会(夜/朝)。ダイナースクラブ会員は、貴重な文化財や天候不順にも負けず力強く花を咲かせるしだれ桜の鑑賞、「朝の観桜会」では、柴燈護摩(さいとうごま)法要を体験いただけます。
プロジェクトでは本年から堂本印象の襖絵の修復が始まります。

詳しくはこちら HP/https://www.diners.co.jp/ja/event/evt_sakura_daigoji_2022.html

大人のあなたにふさわしいクレジットカードはダイナースクラブ
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