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2018.05.06

植草甚一、開高健、三島由紀夫…一流作家に学ぶおでかけスタイルとは

作家でお洒落だったのは誰か。どんなスタイルでお出かけをしていたのか。2万冊の書籍を所蔵する「BUNDAN COFFEE & BEER(ブンダン コーヒー&ビア)」を手がけ、作家に造詣が深い草彅洋平さん(東京ピストル)に伺いました。

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文/草彅洋平(東京ピストル) イラスト/Isaku Goto

編集部の方が僕に尋ねた内容はこう、「お洒落な作家のお出かけスタイルを教えてください」。そこで真っ先に出て来たのが植草甚一、開高健、三島由紀夫の3人だった。とはいえ僕はファッション評論家でもなく、何となくいままで読んで来た流れでこの3人は服装も洒落ていると思って答えたにすぎなかったのだから、さあ大変だ! 数日かけて調べ尽くしてこの原稿を書いている。その結果分かったことは、やっぱり3人は洒落者だったということ。僕なりに"あの人"のお出かけスタイルとファッションを調べてみました。

植草甚一 「ぼくは散歩と雑学がすき」

探偵小説のこと、ジャズのこと、映画のこと、そしてファッションのこと。明治生まれのモダンボーイと呼ばれ、博覧強記にしてさまざまなモノとコトを偏愛し、現在のサブカルチャーの潮流を作ったといわれる雑文家が植草甚一(1908-1979年)だ。

植草の業績は、雑誌の「雑」たる面白みをだれよりも早く築いた人と言ってもいいだろう。評論家と呼ぶ感じでもない。海のものとも山のものとも知らぬ大量の情報を海外を交えて紹介し、その面白さをインターネットもない時代にさまざまな媒体で書いて紹介した人だ。そんな植草の趣味でもっとも有名だったのは「散歩」といってもいいだろう。彼の在命当時、数々の作家が精力的に動き回る植草と遭遇し、そのダンディな装いに度肝を抜かれるという事件が頻繁に起きていた。
写真:毎日新聞社/アフロ
例えば、片岡義男(草創期の『宝島』編集長で、小説家・評論家としても活躍する)は1963年に銀座イエナの前で、帽子から靴まで真っ白にキメたスーツ姿の植草甚一を見かけたことを以下のように書き残している。

このときの植草さんは、五〇歳を超えていたと僕は思う。ひとりの江戸っ子日本男性の身の上における、ヨーロッパの影響の濃い、趣味的な前衛というもののありかたの、際立った一例として僕は植草さんをとらえ、そのとおりの感銘を受けた。(片岡義雄「1963年、植草さんは目立っていた」/『植草甚一スタイル』収録)

こうした植草の様子を、遭遇した誰もが思い出深く書き留めており、ネットのない時代だからこそ一人歩きして、そのオシャレぶりが自然に喧伝された。

ところでなぜ植草は散歩が好きだったのだろう? 好奇心旺盛な植草はとにかく「あたらしくって珍しいもの」がとにかく好きだったようだ。そしてそれを買いたくて仕方がない、買い物マニアでもあった。

ぼくは散歩が好きな男だ。それが何か売っている場所でないと散歩する気が起こらない。だから散歩というよりブラつくといったほうがいいわけで、何かしら買って帰らないと、その晩の仕事がはかどらない。(植草甚一「ゼイタク感という安いゼイタク」/『J・J氏の男子専科』収録)

そしてそれは古本や雑貨、レコードばかりでなく、洋服も同じであった。

ぼくは街のなかを散歩するのがすきなせいか、行きあたりばったりに洋服をつくる癖がついていた。散歩しているとき商店のウィンドーをのぞくのは、時間つぶしにいちばんいいが、最近は昔のようにウィンドーをのぞいている人を見かけなくなった。きっと忙しいんだろう。(植草甚一「外套を着て歩きながら」/『J・J氏の男子専科』収録)

誰もが驚く精力的な植草のエネルギーについて池波正太郎は、金でも酒でもなく、「きたえぬかれた[モダン根性]から生み出される」(植草甚一スクラップブック第二期投込チラシより)と評したが、まさに[モダン根性]がゆえにファッションにも敏感だった。

街歩きの格好はスーツだったり、ド派手なTシャツだったり、とにかくファッショナブルだ。ウンガロやカルダンのスカーフで気に入ったものは女物でも身につけ、靴も23cmだったため、女物で男が履いてもおかしくないものを選んで履いたという。カフスやネクタイといった装飾品もとことん買い集め、「いい洋服ってのは、友だちみたいだな。」というコピーで雑誌に出たり、1977年にはベストドレッサー賞までも受賞した。

街を歩くだけで様々な人々に影響を与えた粋な江戸っ子・植草のように、あなたもお洒落して散歩してみてはいかがだろうか?

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釣り好きなあの作家は、実はとってもダンディ?

開高健 「ファッションの究極は、紺」

『裸の王様』や『輝ける闇』(ともに新潮文庫)を著した小説家・開高健(1930-1989年)をして、野坂昭如(作家、歌手など多彩に活躍。『火垂るの墓』の著者でもある)は、「まったく開高さんのアスコットタイ姿は、ハリウッド全盛時代の、ダンディそのものである」(野坂昭如「天才の悲しみ」・読売新聞社『ザ・開高健』収録)と伊達男のように絶賛している。

とはいえ元々、僕の中にはダンディな彼のイメージはなかった。なぜならば、熱心な釣り師でもあった彼はフィッシングベスト姿でおなじみだったから。世界中を飛び回り、ベトナム戦争にまで従軍したアクティブな作家だからこそ、服装もアウトドアの傾向がある。もちろんその姿もファッショナブルで素晴らしいのだが、なぜ彼は前述のようにダンディなイメージで語られるのだろうか?
開高は57歳になって初めて男のファッションに目がいくようになったのだという。

もともとわたしは、ファッションにあまり興味はなかったんだ。おまけに職業が小説家である。昔なら着流しのゾロッペェですませられた。いまはいっぱしの背広を着てネクタイをつけて……ということになっているけれども、世界中、小説家というものはよれよれの着古したコーデュロイを着て、不精ヒゲを生やし、パイプを咥えているのが通り相場になっている。わが国ではいささか異なるけれども、いずれにしても服装に構わなくて良いというのが、この職業の通念みたいなものだから、わたしもその点であまり服装に興味がなかったのだ。(『知的な痴的な教養講座』「究極のスーツは紺色」)

そんな開高がファッションにハマったのはロンドンに行った際、イギリスの男たちのダンディぶりに目を奪われたからだという。特に背筋をスッと伸ばした”姿勢“が素晴らしく、太った男にもタキシードによく似合うことに感心した。そして一つの真理にたどり着いたという。

かくて、ロンドン紳士の服装をジロジロと見て歩くうちに判明したのは、やっぱり色は紺であるということだ。(中略)諸君、男のファッションの究極は、紺なんだ。いい紺を選びたまえ。(『知的な痴的な教養講座』「究極のスーツは紺色」)

結果、紺のスーツとストライプ、チェックのシャツをそれぞれオーダーしたと書き残している。そのスーツが使われている写真がある。サントリー・ローヤルのコマーシャル撮りの際、ロンドンで撮影された一枚だ。担当したスタイリストの山本康一郎によれば、ホテルに衣装を持って出向いたところ、山本が用意した洋服など一切見ずに、自ら用意してきた洋服の説明をはじめたという。

ツイードのホームスパンという生地を使ったお友達お手製のジャケット。背広の発祥地として有名な、ロンドンのセビル・ロウにあるハンツマンという有名な洋服屋さんで作った、タイクーンという名のカシミア製の濃紺のスリーピース。琥珀とか翡翠で作ったカフス。カフスを取り出したときは、「どうだ、素敵でいいだろう」とおっしゃっていましたが、スーツには合わないので、軽く聞きながしていました。(中略)ツイードのホームスパンのジャケットも使いたいとおっしゃったのも無視しました。ただ、濃紺のスリーピースは素晴らしくて、本当にお似合いでした。(山本康一郎「ネグレクトダンディ」・読売新聞社『ザ・開高健』収録)

ここで思い出して欲しいのは開高の57歳という年齢だ。開高は1989年、58歳で亡くなっている。死ぬ前年にファッションに目覚め、それが一枚の写真となり、強烈な印象として残っているのは流石のダンディとしか言いようがないだろう。

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あのスキャンダラスな作家のお洒落には変遷があり……?

三島由紀夫 「体が先、服装が後」

最後に紹介するのは、『仮面の告白』や『金閣寺』(ともに新潮文庫)など数々の名作を残し、そのスキャンダラスな最期で世間の話題をさらった三島由紀夫(1925 -1970年)。彼の小説に登場する女たちは、とにかくファッショナブルだ。

妙子はさういふカクテルへ出るときの、自分の変り身の早さが好きだつた。彼女は洋裁店の奥の部屋で、お針子たちを叱りながら着換へをした。灰青色の泰国絹のブラウスに、黒繻子の縁取のついたエアリー・ウールのシャネル・スーツ、黒真珠の頸飾とブレスレット、それに灰色革のペランの長手袋を肱まではめ、その上からダイヤの指環をした。銀のメタリックなカクテル・バッグに、靴は黒エナメルのパムプス、……服地に合はせてブラック・サテンの香水をふりまき、シルバー・ミンクのストールをかけた。( 「肉体の学校」)

とか

あとから黒のアストラカンの外套を着た女が下りて来た。きいた話だが、本物のアストラカンは、世間で女の贅沢の標本のやうにいふミンクより高いのださうだね。女の外套は襟が海芋の花のやうな形に項を覆うてゐるので、その顔は恰かも黒い背景の前に置かれたやうに鮮やかである。(「クロスワード・パズル」)

といった艶やかな女性がいたるところに登場している。アストラカンとは、アジア中西部の羊の地方品種であるカラクール種の胎子または初生子の毛皮だが、そうした服飾知識にも三島は詳しかったということだ。だからこそ三島本人もお洒落なんだろうと思っていたところ、「どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、『どうでもいいものだ』ともいへませう」という一節を見つけた。

流行の中から自分に似合ふものだけを摂取する、といふのは一見賢明な態度ですが、流行のはうでは、別にあなたに似合ふかどうか考へてくれるわけではありません。流行といふものは、とらへて来た人間を、一定の長さの寝台に縛りつけて、体の長さのあまつた部分を容赦なく斬り落とした、あの有名な古代ギリシアの盗賊のやうなものであります。今年の夏氾濫したサック・ドレスの中で、一体何人がお世辞にも似合つてゐたと云へるであらうか?(「流行に従うべし」『不道徳教育講座』)
写真:読売新聞/アフロ
つまり三島にとってファッションはまさに「流行」に過ぎなかったのだ。だからこそ彼のスタイルは年を経るごとに変化を見せる。20代前半の頃の写真は和服を着た姿もあるが、ほとんどはスーツ姿。それが30代となると、1960年にさしかかることもあってポロシャツ姿がふえる。

もともと美に敏感であった三島には、《美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることとの、同一の倫理基準》(「私の遍歴時代」)があり、ボディビルで肉体改造をはじめたのには、文体改造と同じ意味合いがあった。40代にもなるとイタリアの伊達男みたいなファッションに磨きがかかり、さらにボタンをあけ、胸板をさらけ出すようになるが、これは三島が追い求めた美が、もはや「流行」で隠しきれなくなったからだろう。

1969年に三島は『男子專科』というファッション雑誌に「男らしさの美学」として、以前は金持ちがたくさんの洋服を持っていることを、「当時私は、お洒落について大いに関心があったから、さういふ人を多少羨しく思わぬでもなかった」が、続けて「しかし今はちがふ。いろいろ目がひらけてきたからである」と記した。そのあとに男の服装として、剣道着と軍服しか美しいものはないと説いた。

軍人は何より肉体的職業であり、肉体の鍛錬がすべてに先行するから男の肉体の基本的条件はすべて最高度に発達せしめられてゐる。それに着せてゆくのが軍服であるから、おのづから、「体が先、服装が後」といふ服装原則に準拠してゐる。(「男らしさの美学」)

筋骨隆々の者しか似合わない軍服こそが、最も美しい洋服だと三島は考えた。だからこそ、彼はド・ゴール大統領の軍服をデザインした五十嵐九十九に依頼し、当時の金で1着30万(現在だと約160万)ほどする軍服を、自ら組織した「楯の会」で配ったのだ。

一、二年前から、ミリタリー・ルックの流行を横目に見ながら、私は「今に見てゐろ」と思つてゐた。男にとつて最高のお洒落である軍服といふものを(もちろんそのパロディー《替唄》の意味でやつてゐることぐらゐは私にもわかるが)およそ軍服には縁のないニヤけた長髪の、手足のひよろひよろした骨無しの蜘蛛男どもが、得意げに着込んで、冒瀆の限りを尽してゐるのは我慢ならなかつた。(「軍服を着る男の条件」)

もし彼が現在に蘇って、ミリタリーウェアで街を闊歩する若者を見たら、きっと激怒するに違いない。しかし三島自身にもスタイルの流行があったように、洋服にも流行がある。『どうでもいいものだ』と笑ってすませられる時代が何より美しいのかもしれない。

スタイルに三者三様のこだわりがあった作家たち。遠い存在に思える彼らでも、こんなエピソードを知ると、なんだか急にひとりの男として息づいてくる気がする。彼らのように、お出かけの着こなしに何かこだわりを持つのも面白いかもしれない。ーーーさて、あなたのこだわりはなんですか?

● 草彅洋平(東京ピストル)

1976年、東京都生まれ。あらゆるネタに極めて高い打率で対応することから通称「トークのイチロー」。2006年に編集を軸としたクリエイティブカンパニーである株式会社東京ピストルを創設。以降メディアの領域を紙、web、カフェ、シェアオフィス、イベントスペースまで幅広く拡大。次世代型編集者として活躍中。

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