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2018.08.31

メーカーとのお付き合いあれこれ

自動車ジャーナリストは、その肩書きどおり、自動車関係の取材と記事の執筆がメインの仕事だ。しかし筆者には、いつの間にかメーカーからの仕事も舞い込むようになる。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

僕の職業は自動車ジャーナリスト。自動車関係の取材をし、記事を書くのが業だ。

なかでも、クルマに乗り、その印象を原稿にするのが仕事の柱になっている。

1964年にはじめて今年で54年目だが、どのくらいのクルマに乗り、どのくらいの原稿を書いてきたのだろう。

もっとも多かった時は年に400〜500台に試乗した。月平均30〜40台といったことになる。
異常な台数だが、これにはウラがある。
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確か1970年代後半辺りだったと思う。『モーターファン』誌が「中古車試乗」という新企画を立て、僕に試乗と執筆の依頼が来た。

中古車というとなにか退屈そうだが、これが面白い。とくに経年劣化の傾向を掴めるのが面白かった。

新車ではなかなか乗れない希少車や超高級車、あるいは歴史の中の名車まで。この企画では多くに乗れた。すごく勉強になった。

こうしたクルマを、毎月1回モーターファン編集部が1ヶ所に集めて、僕が片っ端から乗り、チェックし、気づいたことをメモする。

これだけで年350台ほど。これに通常の試乗台数を加えて、合計年400〜500台という数字が出てくる。

話を本題に戻そう。

そうしたことも含めて、30代後半になる頃には、自動車ジャーナリストとしての仕事は安定したものになり、余裕も出た。
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海外にもよく行った。「欧米のナマの自動車事情」を自分の目で確かめ、原稿にも反映するようにした。とくに、ファッション/流行といった方向から見るのは好きだったし、その反映は読者から多くの支持も受けた。

今でこそレーシングドライバー出身のジャーナリストは多いが、昔はいなかった。だから、僕の試乗範囲はレーシングカーにまで及んだ。

とにかく、僕の自動車ジャーナリスト生活は順風に乗っていた。今思い返せば、順風に乗りすぎていた感もあるほどだった。

そんな流れに、またひとつ大きな、非常に大きな転機が訪れた。1977年か1978年。それまでは厚く重かったメーカーの扉が開かれ、その中に招き入れられたのだ。

扉を開いてくれたのはトヨタ。僕は3代目セリカの開発アドバイザーとして招き入れられた。「ユーザー代表、クルマ好き代表の目線で意見を言ってほしい」とのことだった。

走るのは主に東富士研究所と富士スピードウェイ。トヨタ社員には、安全確保のために多くの「制約」があり、とくに限界領域のチェックは厳しい状態だった。

「自由に走らせて下さい」。初めての試乗の時、僕はまずそうお願いした。トヨタもそれは予期していたことのようで、すぐ、「そうして下さい」との答えをいただいた。

安全規則から大きく外れた走りは、当然いろいろな問題課題を浮かび上がらせることになったが、外部の僕を引き込むことを考え、決断した人物は、そこを狙っていたようだ。

こうしてトヨタの門は開かれ、トヨタの思惑通り、期待通りにことは進んだことになる。

「トヨタが岡崎に門を開いた」との話は、どういう流れかはわからないが、短期間内に他メーカーにも伝わったようだ。トヨタ同様の依頼が次々飛び込んできた。
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早かったのは日産。実験担当の役員から直々に「お会いしたい」との連絡をいただいた。顔見知りで、それまでにもよく話をしていたので話は一気に進んだ。

日産の扉も開かれた。それも一気に大きく。そして、ゴーン体制に変わるまで、その関係はずっと続いた。かつての日産は、閉鎖的な今の日産とは対極にあった。

次はマツダ。3代目ファミリアとロータリー車が初期の主な試験対象だった。

ハイウェイ時代のはるか前のことだから、広島のマツダ本社から三次市の試験場に移動するのは大仕事だった。ほぼ2時間ほどかかったと記憶している。このロスをなくすため、3度目からはヘリを使った。

ヘリと言えばホンダの栃木プルービンググラウンドにもヘリで飛んだ。首都圏の上をヘリで飛ぶのは、あまり心地よいものではない。
でも、初代シビックとアコードは万難を排しても触れる価値のあるクルマだった。

ダイハツでの最初の仕事はシャレード。次いで軽のフェローMAX。フェローMAXはSSラリー車のセッティングを夜中の丹沢山中で行った。懐かしい想い出だ。

そして、スバルも、三菱も、スズキも、、。

こうした関係は多くのメーカーで長く続いた。
そして、セミリタイア状態の今もなお、複数のメーカーとの太いパイプは繫がっている。

かつての若手は、役員になり、社長になり、優雅なリタイア生活を送っている。僕だけが「フリーランス 自動車ジャーナリスト」なる、わかったようなわからないような肩書きのまま仕事を続けている。

ちなみに、海外メーカーとの接触も少なくなかった。日本のメーカーほど深く密にとはいかなかったものの、日本向け仕様車の評価やセッティングはずいぶんやった。

トップに呼ばれ、日本市場との取り組み方のアドバイスを求められたことも何度もある。いずれもシリアスなミーティングだった。

トヨタが初めて門戸を開いてくれてからほぼ40年。多くのメーカーと接してきたが、ネガティブな思い出はまったくない。不思議に思うかもしれないが本当だ。僕は幸せ者ということなのだろう。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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