イラスト/溝呂木 陽
通産省の国民車構想に沿ってトヨタが開発したクルマだが、軽いプライスタグを実現するため、とことん無駄を省いていた。無駄を省くというか・・・とにかくなにもついていなかった。光り物は一切なし、ヒーターもなし、フェンダーミラーさえ標準装備ではなかった。
価格は38.9万円だが、「いつ買い物を頼まれても気軽にすぐ出かけられるし、とても便利だから」と親に迫り、けっこう多額な援助金をせしめられたので、我々の負担は軽かった。
当時の僕はMGA(MGAの話しはまた追って書く)、兄はトライアンフ TR-4に乗っていた。なのになぜパブリカなのか?。答えは簡単。「ガンガン使えて、壊しても安く直せるクルマがほしかった」のだ。
別の言い方をすれば、必死で買ったTR-4とMGAは「壊したら大変!」「事故ったら修理代がない!」状況だったということになる。
パブリカの使い方で、まず考えていたのはジムカーナとラリー参戦。28ps/5.4kgmと非力だが、軽いボディと身のこなしのよさで、なんとか戦えると読んだ。読みは当たった。優勝や上位入賞はさすがに無理だったが、そこそこの結果は残せた。
軽さゆえにコーナーでのタイムが削れた。僕は、大きなパワーを持て余すより、小さなパワーをめいっぱい引き出す方が好きなので、けっこう楽しめた!
パブリカのナラシは、兄と僕と友人たち数人が2時間交代くらいでハンドルを握り、ノンストップで続けた。目標は1000km。スタートしたのは週末の昼頃だったが、ゴールしたのは翌日の夜中過ぎ。いや、明け方に近かった。
おおよそ40時間で1000kmを走った計算だ。平均時速で25km/hくらい。みんな、ちゃんと40~50km/hくらいで抑えて走ってくれたということになる。で、パブリカは、無事、翌週末のジムカーナに出場することになった。
兄と僕と家内の3人がパブリカでエントリー。ゼッケンを張り替え、あるいは書き換え(濡れ雑巾で拭き取って別のゼッケンを書けばいい)て走った。そんな気軽さが心地よかった。
現在のジムカーナは非常に高度化しているが、昔は誰もが気軽に参加できた。普段使っているクルマにゼッケンをつけ、ぶつかったときにヘッドライトのガラスが飛散しないよう、ビニールテープを張る・・・そんな程度で参戦できた。ピクニックにでも行くような気楽さで・・・。
その一方、メーカーによってチューニングされたクルマをメーカー契約のドライバーが乗るといったこともあった。つまり、わが家のパブリカと、ワークスカー/ワークスドライバーが競うということになる。日本モータースポーツの夜明け・・・なんとなくほのぼのとした佳き時代だった。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。