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2020.07.15

「30年前の未来のクルマ」展で改めて驚いたトヨタ4500GTの素晴らしさ

現在、トヨタ博物館(愛知県長久手市)では「30年前の未来のクルマ」展が開催されています。そこには発表当時(1989年)、最先端の技術と画期的なデザインで世界を驚かせた4500GTの姿もあり、コロガシオヤジにとっては注目の展覧会となっているのです。

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文・写真/越湖信一(PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表)   取材協力・資料提供/トヨタ博物館

▲トヨタ4500GT(1989年出展)
トヨタ博物館において「30年前の未来のクルマ」と称す企画展が開催されている。そして、そのキャッチコピーは“コンセプトカー蔵出し”だ。となると、この手の試作車マニア?の筆者としては足を運ばない訳にはいかないではない。早速、現地を訪れてみた。

展示は1987年の東京モーターショーにてデビューを飾ったトヨタGTVから時系列的にスタートする。このGTVは、ガスタービンエンジンを搭載し、低公害の高速ツアラーを謳った。1989年はコンパクトSUVのRAV FOURと“先進技術と遊び心”を謳ったトヨタ4500GT。続いて、1991年はパーソナルコミューターAXV-IVと“ハーモニックエアロサルーン”を謳うトヨタAXV-V。1995年はMR-Sをベースとした2+2モデルMR-J、アクティブ・サスペンションを搭載したトヨタモーグルといったレアな“蔵出し”モデル達が並んでいる。
そもそも、こういった試作車が良好なコンディションで保管されることはまれであり、今回のようにそれらがまとめて展示されることはめったにない。素晴らしい試みである。極めて高額なコストをかけて生産されるこれら一点もののコンセプトカーは税法上の問題からもあって、当初の目的が終わった時点で廃棄されてしまうことが多い。

海外の少量生産メーカーの試作車は特別なコントラクトの元に、コレクターへと譲渡されることもあるようだ。そして、時の流れと共にそれらがオークションなどに現われることもあるが、日本の場合はそういったケースはほとんどない。
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4500GTは重要なミッションを持って登場した

さて、これら展示車両の中で筆者にとって気になるのは、なんと言っても1989年デビューのトヨタ4500GTだ。まさに日本の自動車産業が栄華を誇っていた瞬間に誕生した、世にも希有なモデルであるからだ。それだけではない。このすぐにでも商品化されそうなレベルに仕上がったコンセプトモデルは、単に技術のアピールにとどまらず、トヨタというブランドの将来を模索するという重要なミッションを持って登場したに違いないと筆者は考えるからなのだ。

4500GTはCd値=0.29を達成したスタイリッシュで比較的大柄な2+2クーペだ。クリーンなフロント周りはモダンかつエレガントであるが、リアエンドはかなり思い切ったコーダトロンカ形状を採用している。このユニークなシューティングブレークスタイルは当時、賛否両論があった。しかし、このモデルのスタイリングに関する存在感は今も昔も、とんでもなく高いのだ。

世界のカーデザイナー達と日本車のデザインについて語るならば、かなりの確率でこの4500GTの名前が出てくる。「このモデルが出てきた時、日本のカーデザインも一皮むけたと思った。うかうかしていられないと焦ったね」という某有名カロッツェリアの世界を代表するデザイナーのコメントを思い出す。
▲4500GTのスタイリングは大きな注目を集めた
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同年にデビューを飾ったホンダNSXの“誰にでも快適、且つ安全に運転を楽しめるハイパフォーマンスカー”というコンセプトは、世界中のスポーツカーメーカーへ大きな影響を与えた。その一方でこの4500GTのユニークなスタイリングも大いに注目を集めたのだった。

エンジニアリング的には4.5Lの5バルブV8エンジン、電子制御の後輪操舵、そして室内のこもり音を減少させるアクティブブーミングノイズキャンセラーなど、日本車お得意のハイテクが駆使されている。軽量化の追求も徹底しており、各部にCFRPやハニカム素材が採用される他、ホイールやオイルパンなどにマグネシウム素材が積極的に採用された。
そして、このモデル最大の魅力はそれまでの日本車が競っていたスペックにおける差別化に終始しなかった所にある。つまり、高級スポーツカーとしての味付けにたっぷりと拘っていた。エンジンはフロントミッドマウントされ、トランスアクスルを採用することにより、理想的な前後の重量配分を達成。前後ダブルウィッシュボーンサスペンションにトルセンLSDが採用され、スポーツカーとして最適なヴィークル・ダイナミクスの追求が行われているのだ。

当時の広報資料のトップには、ひときわ大きく「高性能スポーツカーを造りたい」というコピーが見受けられる。潔いというか、ひときわストレートなこの表現に開発スタッフの想いが込められているように感じる。
さらに注目したいのはエグゾーストサウンドへの拘りだ。チタン製エグゾーストシステムはコンピューター制御され、エキサイティングなサウンドを楽しめるという。広報資料にも「エンジンの息づく音や音楽は、高性能スポーツカーを駆る人の心を高揚させます」とあるではないか。

これは画期的なことだ。当時(現在も)、日本の自動車メーカーにとってエグゾーストサウンドというのは無音に限りなく近づけるのが正義であったからだ。4500GTには、ヨーロッパをはじめとする世界に通用するグラントゥーリズモを日本のテクノロジーを上手く用いて仕上げるという明確なコンセプトが存在した。
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もしレクサスのフラッグシップとしてデビューしていたら

1989年、日本の自動車シーンは活況の体であった。ユーノスロードスター、スカイラインR32 GT-R、そして、ホンダNSX。東京モーターショーではいすゞ 4200R、三菱 HSR-II、市販を前提とした童夢・ワコールのスポーツカープロジェクトジオット・キャスピタといったありとあらゆるカテゴリーのスポーツカーが披露されていた。

平成へと時代は変わり、3ナンバー車購入時の税金も物品税から消費税(暫定税率6%)へと切り替わった。大排気量のハイパフォーマンスモデルへの注目が一気に高まっていたのだ。幕張メッセへと会場を移した東京モーターショーは15か国333社2政府3団体。来場者数、報道関係者数も過去最高の数字となっていた。
▲ホンダNSX
ところが続いて開催された1991年東京モーターショーは来場者数でこそ、栄華を飾ったが、出展されたクルマ達の素性は大きく変化していた。今回の蔵出しプロジェクトではAXV-IV、MR-Jが相当するが、軒並みダウンサイジングされ、環境や安全を意識した出品車が主流となった。

そして、1990年3月に大蔵省より通達された「土地関連融資の抑制について」、いわゆる総量規制によって日本経済のバブルは弾けたのであった。ここで、多くのプロジェクトがまさに“お蔵入り”となり、一気に拡大志向はトーンダウンした。
言うまでもなくこのトヨタ4500GTはまさに皆がバブルに浮かれていた瞬間に誕生した。しかし、皆と同じように浮かれて造ったコンセプトモデルが4500GTだ、と考えたとすればそれは間違いだ。

この1989年には日本の自動車史においてもう一つの大きな事件が起きていたことを忘れてはならない。それはトヨタがレクサスブランドを立ち上げ、プレミアムカー・カテゴリーへ日本のメーカーとしてはじめて本格的に参戦をはじめていたのだ(先行したアキュラは世界基準でいうところのプレミアム・ブランドとは少し異なる戦略でスタートしていた)。

そう考えると、この4500GTはまさに世界のプレミアム、ラグジュアリーカテゴリーで戦う上で求められるフラッグシップモデルの素養を秘めていた。特に北米においては大排気量、マルチシリンダーエンジン搭載のラグジュアリークーペの存在はプレミアム・ブランドとしてマストであるからだ。
▲レクサスLC500コンバーチブル
この4500GTはスペックとしての差別化を超えた、日本車がもっとも苦手としていた五感に訴える質感とスポーツカーのDNAを模索していた。この流れは然るべき時の流れを経てレクサスLC500で開花したとも言えるが、もし4500GTが1989年当時に商品化されレクサスのフラッグシップとしてデビューしていたらどうなっていたであろう。世界のプレミアム・ブランドの勢力図も現在とは少し違うものになっていたのではないかと考えてしまう。
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ピニンファリーナにとっても注目の一台だった4500GT

この1989年の東京モーターショーにはさらに注目すべき“事件”が起きていた。キング・オブ・カロッツェリア、あのピニンファリーナがワールド・プレミアとしてフェラーリ・ミトスを掲げて東京モーターショーへ初参加したのだ。

フェラーリ・テスタロッサをベースとしたオープンモデル、ミトスは前後から延びた二つの曲線がボディ中央で交じり合うというユニークな造形を特徴とし、その後のフェラーリ市販モデルへ大きな影響を与えた重要なモデルであった。
▲ミトスとラマチョッティ氏
当時、ピニンファリーナの開発部門で全権を握っていたロレンツォ・ラマチョッティはこう語った。「ヨーロッパのメーカーは未来への展望を形にするコンセプトモデルへの情熱を失っていた。かつての斬新な提案は消え去り、市販モデル化がいかに容易にできるかという側面が何よりも重視されていた。逆にこういったコンセプトモデルを競って作り始めていたのが日本の自動車メーカーであった」と。
ピニンファリーナはフェラーリのスタイリング開発を独占的に行いカーデザイン界において大きな影響力を持っていたが、これから世界のトレンドをリードするのは日本のメーカーであると、大いに注目していた。

1980年代前半はホンダとの長期に渡るコンサルタント契約が結ばれ、幾つかのコンセプトモデルが秘密裏に製作されたが、あくまでもホンダはケーススタディと見なした。本田宗一郎の「ホンダは日本でデザインすべき」というポリシーに縛られたいたと言われており、市販モデルへの関与があったのはホンダ・ビートくらいのものであった。
そんな訳でピニンファリーナは日本のメーカーに積極的なラブコールを送った。ピニンファリーナという歴史あるブランドと日本のメーカーとのコラボレーションによる相乗効果を提案したのだ。そして、あわよくば少量生産モデルの開発・製造受託をも請け負うという戦略をピニンファリーナは抱いていた。そんなピニンファリーナにとっても4500GTは注目に値する一台であったと、当時の関係者は後日語っている。
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博物館でトヨタ・セラが圧倒的な人気を誇る理由

バブル絶頂期に自動車メーカーはもちろんブランドパワーを高める為に多大な投資を行ったはずだが、その多くはブランドの本質に触れたものではなかった。F1への参戦を発表したり、現在のラインナップからはかけ離れた夢のクルマのコンセプトモデルを作ったり、販売チャネルを拡大し姉妹モデルを増やす……。

これらはただブランドを大きく見せるために、その周辺をお化粧しただけで、ブランドそのものには何の手も加えなかったように見える。もしブランド価値を高める工夫へ投資していたのなら、日本の自動車ブランドも変わっていたのかもしれない。

その点で、トヨタはレクサスというブランドを本気で育てようとしたし、4500GTのようなそのブランドの核となり得るクルマを模索していたのはたいしたものだと思う。バブルの中でも、地に足が着いた理論で動いていたと言えよう。
▲展示の中央に鎮座するトヨタ・セラ
▲トヨタ・セラ
実は、今回の特別展示において、“センター”に鎮座する一台はコンセプトモデルではなく、市販モデル、トヨタ・セラであった。副館長の増茂氏によると、この世代のモデルの中でセラが博物館入場者の間で圧倒的な人気を誇るという理由でセレクトされたという。

確かにセラは世界を驚かせた究極のモデルであった。設計から製造までとんでもない技術を必要とするグラスキャノピー・バタフライドアを採用した唯一の量産車だ。フェラーリ・エンツォの開発時に、このセラからインスパイアされて、グラスキャノピーの採用をフェラーリは検討したらしい。しかし、あまりの高コストと製造の難しさから、諦めざるを得なかったという逸話があるくらいなのだ。いずれにしてもこの特別展示、クルマ好きなら見て損はない。お勧めである。

トヨタ博物館

世界のクルマの進化と文化をたどる博物館として1989年4月に設立。「クルマ館」では19世紀末のガソリン自動車誕生から現代までの自動車の歴史を日米欧の代表的な車両約140台で一望できる。「文化館」の「クルマ文化資料室」では「移動は文化」をテーマに、ポスターや自動車玩具、カーマスコットなど自動車にまつわる文化資料、約4000点を展示している。「30年前の未来のクルマ」展は文化館2F 企画展示室で2020年10月11日まで開催予定。 
HP/https://toyota-automobile-museum.jp/

● 越湖 信一(えっこ しんいち)

PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表。イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンタテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。

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