2026.10.09
【第55回】
日本の食卓が教えてくれる魔法の言葉。それは「Poco è meglio(少ないことは、より豊かなこと)」
世界が急速に繋がって、広い視野が求められるこの時代に、イタリア生まれのフード&ライフスタイルライター、マッシさんが、日本人とはちょっと違う視点で日本と世界の食に関する文化や習慣、メニューなどについて考える連載です。
BY :
- 文/マッシ
- CREDIT :
写真/スガイ マッシミリアーノ 編集/森本 泉(Web LEON)
「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)でおなじみのマッシさんが今回教えてくれるのは、イタリア人が日本食にハマる理由。マンマの味こそ世界一だと疑わない、頑固なイタリア人たちを、日本食はいかにして手懐けてしまったのか?

▲ マッシとサーモン尽くし定食 。
かつては「生の魚を食べるなんて野蛮だ!」と顔をしかめていたのに
ミラノの街を歩くイタリア男たちが、カフェでエスプレッソを片手に何を熱狂的に語り合っているかご存知だろうか。サッカーのセリエA? それとも最新のジャケットの着こなし? いや、最近の話題はもっぱらこうだ。
「昨晩行ったあの店のマグロの漬け、最高に美味しかった!」
かつては「生の魚を食べるなんて野蛮だ!」と本気で顔をしかめていたイタリア人が、いまや箸を器用に使いこなし、週末の予約帳を日本料理店で埋め尽くしている。自国のマンマの味こそ世界一だと信じて疑わない、筋金入りで頑固なイタリア人たちを、日本食はいかにして手懐けてしまったのか。
日本で暮らして20年、すっかり胃袋をこの島国に掴まれてしまった一人のイタリア人として、その秘密を解き明かしてみたい。まず、イタリア料理の基本精神はなんなのだろう。
日本食はイタリア人の「旨み」のツボを、的確かつ洗練された形で突いてくる⁉
例えば、我が家のマンマが腕を振るう日曜日のボロネーゼ。香味野菜をオリーブオイルでじっくり炒め、ひき肉を投入し、赤ワインをドバドバ注ぎ、トマトペーストとブロードを加えて数時間コトコト煮込む。仕上げにはこれでもかとパルミジャーノを削り落とす。鍋の中はお祭り騒ぎ、旨みの過密フェスティバルだ。「美味しさは情熱の分量に比例する!」と言わんばかりである。

▲ サーモンばかりに見えるけど、調理と食べ方が変わるから別のものになる。
ところが、日本にやって来て初めて食べた「焼き魚定食」に、僕は椅子から転げ落ちそうになった。目の前に現れたのは、炭火でこんがり焼かれた秋刀魚が一匹。皿の上には、大根おろしと、ひと切れのすだち。それだけだ。ソースは? トマトは? にんにくはどこへ消えたんだ?
半信半疑で箸を入れ、パリッとした皮とともに脂ののった身を口に運ぶ。……その瞬間、頭の中で雷鳴が轟いた。「塩でしか味付けされていないのに、魚の旨みが大爆発してるじゃん!」
大根おろしに醤油を数滴垂らし、すだちをキュッと搾って合わせると、魚の脂の甘みとほのかな苦みが調和を見せる。具材を重ねて複雑な味を作り出すイタリアに対し、日本料理は素材の周りにある余分なものを削ぎ落とし、芯にある美味しさだけを浮き彫りにする。この引き算の切れ味に、僕は一瞬で白旗を揚げたのだ。
イタリア人が日本食にこれほど夢中になる最大の理由、それはエキゾチックな見た目ではない。彼らの大好物である「旨み」のツボを、あまりにも的確に、かつ洗練された形で突いてくるからだ。
おでんの出汁はスープを飲むよりスープの味がする!
そもそもイタリア人は、完熟トマトや生ハム、パルミジャーノ・レッジャーノなど、旨みの強い食材を愛してやまない。だからこそ、昆布と鰹節の出汁、醤油、味噌といった日本のエッセンスに一度触れてしまうと、脳内の快楽スイッチが完全にオンになってしまう。それを痛感したのが、冬の風物詩「おでん」だ。

▲ さんま定食は塩焼きのシンプルさから最高の旨みが生まれる 。
イタリアから遊びに来た友人を、僕が住む石川県金沢市にある赤提灯が揺れるカウンターのおでん屋へ連れて行ったことがある。茶色い湯気の中でクタクタに煮込まれた大根を指差し、彼は言った。「マッシ、俺にただの根菜を食わせる気か? ステーキはないのか?」
僕は、まあ黙って食べてみてよ、と彼に箸を握らせる。大根を割ると、澄んだ出汁がジュワッと溢れ出す。おそるおそる口に運んだ友人は、次の瞬間、目を丸くして固まった。「なんだこのジューシーさは! スープを飲むよりスープの味がする!」
「満腹になっても体が軽い」という、奇跡のような心地よさ
そう、昆布と鰹節の出汁が、大根という素朴な野菜の繊維の奥深くまで染み渡り、噛むたびに溢れ出す。牛肉の煮込みのように重たくないのに、満足感はそれ以上。友人はその夜、牛すじにもタコにも目もくれず、大根ばかりを3個もお代わりしていた。
あるいは、春の「筍ご飯」。具材は米と筍、少々の油揚げだけ。味付けも淡い出汁と薄口醤油、酒くらいのものだ。イタリアのリゾットのようにバターもブイヨンも使わないのに、ひと口食べれば春の土の香りと筍のみずみずしい甘みが広がり、思わず天を仰いでしまう。食材が少ないからこそ、その季節の命そのものを食べている実感が湧くのだ。

▲ 数種類のおでんはひと皿になると、シンプルなのに深いマリアージュに驚く。
もう一つ、舌の肥えた西洋人を虜にする大きな魅力がある。それは「満腹になっても体が軽い」という、奇跡のような心地よさだ。
イタリアでのフルコースディナーは至福だが、翌朝の代償は重い。胃袋には昨晩のオリーブオイルと赤ワインがずっしりと居座り、バスルームの鏡の前で「今週は節制しよう……」と後悔の念に駆られるのがお約束だ。
日本食は美味を極めながら手に入る「免罪符」
しかし、日本料理はどうだろう。刺身を味わい、季節の野菜の炊き合わせをつまみ、最後にふっくら炊き上がった白米と赤出汁、ぬか漬けで締める。お腹はこれ以上ないほど満たされているのに、胃もたれとは無縁で、足取りすら軽い。動物性の油脂に頼らず、発酵調味料と出汁の力で満足感を生み出すからだ。
「美食を楽しみたい。でも、スマートで健康的でありたい」、そんな現代の大人たちが抱えるワガママな願いを、日本食はいとも鮮やかに叶えてくれる。いわば、美味を極めながら手に入る「免罪符」なのだ。
また、日本食の本当の素晴らしさは、格式高い銀座の鮨屋や京都の料亭だけではなく、街の居酒屋や家庭の食卓にまでその哲学が宿っていることにある。例えば、居酒屋で頼む「冷奴」。冷たい絹ごし豆腐に、生姜のすりおろしとネギ、そして鰹節。醤油をひと筋回しかけて口に運べば、大豆の自然な甘みと薬味の爽快さ、鰹節の香ばしさが完璧なトライアングルを描く。調理時間わずか1分、食材は数えるほど。それなのに、ワインや日本酒のアテとしてこれ以上のひと皿があるだろうか。

▲ 鶏肉と卵の組み合わせから考えられないほど美味しい親子丼になる 。
複雑に飾り立てるのではなく、選び抜いた素材を信じ、そっと寄り添うように仕立てる。それはまるで、上質な白シャツに身を包み、時計の針を外して自然の風を感じるような、究極の贅沢だ。
情熱的な足し算の世界で育った僕にとって、日本の食卓が教えてくれる「Poco è meglio(少ないことは、より豊かなこと)」の魔法は、知れば知るほど底が知れない。今夜も僕は、カウンターで焼き鳥の「塩」を頬張りながら、素材の旨みに静かに唸るのだ。
「ああ、やっぱりこの国のシンプルさには、一生敵いそうにない」と。

● マッシ
本名はスガイ マッシミリアーノ。1983年、イタリア・ピエモンテ州生まれ。トリノ大学院文学部日本語学科を卒業し2007年から日本在住。日伊通訳者の経験を経てからフードとライフスタイルライターとして活動。書籍『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』(KADOKAWA)の他 、ヤマザキマリ著『貧乏ピッツァ』の書評など、雑誌の執筆・連載も多数。 日伊文化の違いの面白さ、日本食の魅力、食の美味しいアレンジなどをイタリア人の目線で執筆中。ロングセラー「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)は145万PV達成。最新刊『イタリア紳士、うまいと叫ぶ』(亜紀書房)が好評発売中。
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