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2017.08.28

銀座は島だった?銀ブラしながら話せる雑学5選

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文/畑中章宏(作家・民俗学者)
銀座を歩いていると、風変わりな地名、謎の石碑、多数のお社など、銀座の地が刻んできた歴史の面影がいたるところに残ってます。彼女と銀座を歩いていて、不意に訪れた沈黙に「ここはね、昔半島だったんだよ。その証拠に……」なんて、ちょっとした雑学を披露できるのも銀座ならでは。知ってみて面白く、きっと誰かに話したくなる銀座の豆知識をご紹介します。

1. 銀座はかつて半島だった?

現在の日比谷公園・皇居外苑あたりまでは海(日比谷入江)が入り組み、東側に江戸前島(半島)が浮かんでいた。徳川家康にの江戸入りに伴い、日比谷入江が埋め立てられ半島としての江戸前島は姿を消した。
日本各地に「○○銀座」を生み出した繁華街の代名詞、東京中央区の「銀座」。そもそも「銀座」というのは銀貨の鋳造所のことで、1612年(慶長17年)に、現在の静岡市に置かれていた銀座役所が江戸に移転。当時は「新両替町」と言っていたが、蛎殻町に移転すると「銀座」の通称で呼ばれるようになった。

ところでかつては、銀座付近は海に突き出た“半島”だったという。江戸時代より前まで、日比谷から丸の内にかけては入り江が入り込み、日本橋から銀座までは「江戸前島」という半島が伸びていた。その半島の先端が、現在の銀座にあたる。徳川家康は江戸に幕府を開くと、入り江を埋め立て、京橋地区の整備を進めた。さらに家康は街区を整備し、舟運を発達させるため堀割をはりめぐらせた。そして堀を削った土や神田山を切り崩して、入り江を埋め立てたのである。

なおティファニー銀座本店(中央区銀座2-7)の前あたりに、銀座役所の跡地を示す「銀座発祥の地」の石碑があるので、興味のある向きは探してみてはどうだろう。

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2. 知る人ぞ知る銀座の“聖地巡礼”

2. 知る人ぞ知る銀座の“聖地巡礼”

松屋銀座の屋上に鎮座する「龍光不動尊」。横に広がるテラスではビアガーデンなど季節のイベントが開催されている。
銀座には「銀座八丁神社めぐり」という、知る人ぞ知る“聖地巡礼”が毎年催されている。10社以上の聖地のなかで、最も目につきやすいのは歌舞伎座の前にある「歌舞伎稲荷神社」だろう。歌舞伎座の右端に立つお社には、観劇の前後にお参りする人も少なくない。

一方、「龍光不動尊」は銀座松屋の屋上、「銀座出世地蔵尊」は銀座三越9階の銀座テラスにある。「宝童稲荷神社」や「あづま稲荷神社」、「豊岩稲荷神社」は路地の奥にあり、目立ちにくいが、「豊岩稲荷神社」は歌舞伎名優の市村羽左衛門が崇敬したことで知られているまた資生堂銀座ビル 1Fエントランスにある「成功稲荷神社」は八丁神社めぐりのとき以外は非公開だ。

この神社めぐりには、不動明王や地蔵菩薩を祀っているところも入っているが、ほとんどの神社が稲荷を祭神にしている。社殿の前で狐が迎えてくれる「稲荷社」は、農家が多いところでは、稲がよく稔る「五穀豊穣」のご利益があるとして、さかんに建てられた。それが転じて、京都や江戸のような大都市では、商売繁盛のご利益があるといわれるようになり、日本随一の繁華街・銀座でも、信仰が広まることになったのである。

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3. モダンな老舗発祥の地、銀座

3. モダンな老舗発祥の地、銀座

1895年(明治25年)開業の「煉瓦亭」。銀座三丁目に佇む現在の店舗は1964年(昭和39年)に建てられたもの。
明治の文明開化とともに、築地の外人居留地にも近い銀座は、“舶来”の味を提供する店が相次いでオープンした。西洋料理を日本人向きにアレンジした“洋食”の老舗といえば、1895年(明治28年)開業の「煉瓦亭」。オムライスはもともと、煉瓦亭の賄いメニューだったと言われている。

1902年(明治35年)には、資生堂薬局がソーダ水やアイスクリームの販売を始める。このソーダ・ファウンテンが「資生堂パーラー」の前身だ。1897年(明治30年)には「銀座千疋屋」がフルーツパーラーを開業している。1911年(明治44年)に「カフェー・プランタン」が開店すると、その後もカフェーのオープンが相次ぐ。

1874年(明治7年)には「木村屋」の創業者と二代目が「あんぱん」を考案し、販売を始めた。「ジャムパン」も、1900年(明治33年)に木村屋の三代目が考案したものである。戦後になるとフランス料理店の「レカン」「マキシム・ド・パリ」を始め、世界の高級料理店が進出。1980年代の後半からは世界の一流レストランの出店ラッシュとなる。

一方、1971年(昭和46年)に「マクドナルド」、「ダンキンドーナツ」の1号店が開店。1990年代後半からは「スターバックス」「タリーズ」「サンマルクカフェ」、そして「ル・カフェ・ドトール」などファストフード店やコーヒー・チェーン店も、こぞって銀座に1号店を構えていった。

4. “モボモガ”は存在したのか?銀ブラ調査の衝撃

今和次郎らは1925年の初夏に銀座を歩く男女の服装の実態を実地調査した。「東京銀座街風俗記録 統計図表索引」『今和次郎 採集講義』(青幻舎)
1923年(大正12年)9月に起こった関東大震災では、銀座も大きな被害を受けた。しかしその復興には目覚ましいものがあった。震災前までモダンな風俗、ファッションの発信地となったこの街を、震災から2年後、なにからなにまで、隅から隅まで調べてみようと立ち上がったのが、今和次郎(こん・わじろう)とその仲間たちである。

彼らが実施した「一九二五年初夏東京銀座街風俗記録」の調査区域は、京橋から新橋までのあいだの、主として西側の歩道上。調査区間を時速3キロで歩き、前方から歩いてくる人だけを対象にし、立ち止まる人、追い越す人は調査に加えないというもので、細部にわたる項目を調査し、イラスト交じりの図表で記録した。

その細目は、たとえば「女の風俗」調査では、「和装と洋服の割合」「平常着と外出着の割合」「着物と羽織の柄」「衿の合わせ方」「スカーフの色」「ハンケチの色」「足袋」「櫛」「バッグ、持物、傘」「化粧」「歩き方」等々。女性の全身をまさにくまなく調べ尽くす。

この伝説的な調査で最も驚くべきことは、“モボ”と“モガ”(“モダン・ボーイ”と“モダン・ガール”)のブラり歩きがイメージされる銀座で、女性の洋服は和服に比べてはるかに少なく、全体の約1パーセントにすぎないという衝撃の事実だった。

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5. 銀座には川が流れ、橋が架かっていた

5. 銀座には川が流れ、橋が架かっていた

煉瓦造りの京橋や煉瓦灯、銀座を往来する人々を描いた三代歌川広重の作、「東京開化名勝京橋石造銀座通り 明治時代 明治7年」 提供:PPA/アフロ
銀座の南北に接する街は「新橋」と「京橋」。銀座の街なかを歩いていても、「橋」の名がついた道路標示が目につく。これはかつての銀座が、“川の街”だった名残りである。

「新橋」は「汐留川」に架かっていた橋で、新橋駅から煉瓦街の建ち並ぶ銀座通りへの入口だった。戦後は水上バスも運行していた。「京橋」が架かっていた「京橋川」沿いには「大根河岸」という青物市場があり、関東大震災の前まで、東京の生鮮野菜の流通拠点だった。晴海通りの東寄りには「築地川」が流れ、「万年橋」があった。

昭和通りの西側を流れていたのが「三十間堀川」。2014年(平成26年)4月に閉鎖された「三原橋地下街」は三十間堀川に掛かっていた「三原橋」の地下がモダンな地下街として発展したものである。「数寄屋橋」が架かっていた「外堀川」は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催に合わせて埋め立てられた。

「数寄屋橋」という地名が、いまでも多くの人に親しまれているのは、1950年代に放送されたラジオドラマ『君の名は』で、“待ち合わせ場所”になっていたからである。ちなみに映画『君の名は』の国民的人気のもとになった“男女のすれ違い”という永遠のテーマは、昨年公開された映画『君の名は。』に受け継がれた。

●畑中章宏

作家・民俗学者。 1962年生まれ。日本人の民間信仰や民衆史をとおして、現代社会を考える活動を展開。著書に『柳田国男と今和次郎』『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『災害と妖怪』『津波と観音』(亜紀書房)、『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか』『蚕』(晶文社)、『天災と日本人』(筑摩書房)ほか。

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