2026.06.12
【第48回】
日本の食文化「おまかせ」が、世界の美食家たちの心を掴んで離さないワケとは?
世界が急速に繋がって、広い視野が求められるこの時代に、イタリア生まれのフード&ライフスタイルライター、マッシさんが、日本人とはちょっと違う視点で日本と世界の食に関する文化や習慣、メニューなどについて考える連載です。
BY :
- 文/マッシ
- CREDIT :
写真/スガイ マッシミリアーノ 編集/森本 泉(Web LEON)
「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)でおなじみのマッシさんが今回お話してくれるのは、日本の象徴的な食文化である「おまかせ」について。自ら選ぶ「アラカルト」の対極にある委ねる文化が世界の美食家たちになぜか熱烈に支持されているのだとか。

▲ 日本のワンプレートを楽しんでいるマッシ。
日本人が気づかない「おまかせ」の国際的な新解釈とは?
日本の食文化を象徴する言葉「おまかせ」が、今、世界の美食家たちの間で熱狂的に受け入れられている。とりわけ、自分の意見や好みをはっきりと主張するはずのイタリアの富裕層や文化人が、このシステムに強い愛着を示しているのだ。
一方で、普段は調和や「空気を読む」ことを重んじるはずの日本人が、イタリアのトラットリアを訪れると、メニューを凝視し「自分で自由に選びたい」と目を輝かせる。この食卓における奇妙な逆転現象の奥には、両国が持つ文化の深さと、現代人が求める「究極の贅沢」の正体が隠されている。
ミラノやローマ、あるいはフィレンツェで高級な寿司店や割烹に足を運ぶと、洗練された現地の人々が、板前の前で静かに「Omakase」を愉しんでいる姿に遭遇する。イタリア人は普段、カプチーノの泡の量からパスタの茹で加減、ジャケットの袖口の数ミリの長さにまで執拗にこだわる人種だ。自らの意志を持ち、それを他者に表明することこそが成熟した人間の証とされる社会において、なぜイタリア人は料理の選択権を全面的に日本人の職人に委ねることを愉しめるのだろうか。

▲ イタリアのピッツァ屋さんのメニューは本のように分厚い。
ここに、日本人がなかなか気づいていない「おまかせ」の国際的な新解釈がある。イタリア人にとっての「おまかせ」とは、決して優優不断による選択の放棄ではない。それは、目の前にいるプロフェッショナル、すなわち職人の技術と審美眼に対する究極のリスペクトの表明なのだ。
イタリアには古くから、信頼できる仕立て屋や靴職人にすべてを委ねる文化が存在する。自分のこだわりを押し付けるよりも、職人の解釈に自らを預ける方が、より高い次元の美に到達できることを直感的に知っている。日本の「おまかせ」は、まさにその感覚と完璧にシンクロした。
自分で選ぶという日常のコントロールを手放し、相手のクリエイティビティに身を委ねる。これこそが、イタリア人にとってこの上ない受動的快楽であり、最高に贅沢な時間として機能しているのである。
日本人にとってアラカルト注文は一種の精神的自由の獲得?
対して、日本人の心理はどうだろうか。日本国内のレストランや居酒屋では、コース料理や店側の「おすすめ」を選ぶことが多く、宴席であれば全体の調和を乱さないよう、周囲の注文に合わせることも珍しくない。しかし、そんな日本人がひとたびイタリアの地に降り立ち、地元のトラットリアやバールに足を踏み入れると一転して、徹底的な自己決定の快感に目覚める。

▲ 迷いながらメニューをずっと巡ってようやく頼んだ生ハムピッツァ。悩んだ甲斐があるほど美味しかった。
「前菜はこれとこれ、プリモはパスタではなくリゾットにして、セコンドは肉をシェアしよう。ワインは地元のこのブドウ品種で」など。
メニューを隅々まで読み込み、自らの手でディナーの構成を組み立てていく。この時、日本人の目には、普段の社会生活では抑え込んでいる自己表現の炎が灯っているように見えるのだ。
日本の日常において、日本人は常に社会の枠組みや他者との調和、いわゆる「空気」を読みながら生きている。だからこそ、旅先という解放された空間、とりわけ「食」の現場においてだけは、誰にも邪魔されない完全な自由と、自己決定の権利を謳歌したくなるのではないだろうか。イタリアでのアラカルトの注文は、日本人にとってただの食事の選択ではなく、一種の精神的自由の獲得なのだ。自らリスクを取り、自らの舌で責任を持つ。そのプロセスそのものが、日本人を惹きつけてやまない。
この逆転現象をさらに深く掘り下げると、日伊の文化が持つ意外な共通点と、お互いを補い合う関係が見えてくる。

▲ 日本の定食屋さんのメニューは写真つきで分かりやすい。定食一つ頼めばコース料理のような量が出てきて食べ応えがある。
「おまかせ」と「アラカルト」、2つの美学の間を自由に行き来できるか
日本では、「おまかせ」の本質は「阿吽の呼吸」や「信頼関係」にあるとされる。客は職人を信頼し、職人は客の佇まいや飲むペースを察して、最適なひと皿を差し出す。ここには言葉を超えた繊細なコミュニケーションが存在する。
イタリア人がこのシステムを愛するのは、僕たちが本来、人間味のある濃厚な関係性を重視する民族だからだ。マニュアル通りのサービスではなく、一対一の人間として職人と対峙し、その粋な計らいを味わう。「おまかせ」の根底にある情緒的な結びつきは、実はイタリア人のラテン的な精神に深く突き刺さる。
一方で、日本人がイタリアのアラカルトに感じる魅力は、徹底した「個の確立」への憧れのようにも思える。日本ではシェアの文化があり、大皿を頼んで食卓のみんなで分け合う。しかし、イタリアの食卓は、どんなに親しい間柄であっても、ひと皿ひと皿が独立しており個人のものだ。自分が食べたいものを自分で選び、自分のペースで完結させる。この明確な境界線と個の自立が、日本人に心地よい緊張感と新鮮な刺激をもたらしているのだ。

▲ イタリアのトラットリアのメニューは文字だけでシンプル。
すべてを自分でコントロールし、合理的に最適解を導き出そうとすることだけが、大人の男のスマートさではない。ときには、信頼できるプロフェッショナルに自らの選択権をすべて差し出し、何が出てくるか分からない高揚感に身を委ねる。あるいは、周囲の目を一切気にせず、自分の五感だけを頼りに、自らの意志で夜の時間を組み立てる。
「おまかせ」という名の究極の受動と、「アラカルト」という名の純粋な能動。この二つの美学を自由に行き来できることこそが、真に豊かな人生を知る、クオリティライフを求める大人の男の条件ではないだろうか。次に食卓につくとき、あなたはどちらの贅沢を選択するだろうか。

● マッシ
本名はスガイ マッシミリアーノ。1983年、イタリア・ピエモンテ州生まれ。トリノ大学院文学部日本語学科を卒業し2007年から日本在住。日伊通訳者の経験を経てからフードとライフスタイルライターとして活動。書籍『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』(KADOKAWA)の他 、ヤマザキマリ著『貧乏ピッツァ』の書評など、雑誌の執筆・連載も多数。 日伊文化の違いの面白さ、日本食の魅力、食の美味しいアレンジなどをイタリア人の目線で執筆中。ロングセラー「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」(note)は145万PV達成。
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