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2018.08.24

自動車ジャーナリスト、新人時代

1964年から半世紀以上にわたって自動車ジャーナリストを続けてきた筆者。その新人時代の働き方は猛烈なものだった。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

今回は、僕が自動車ジャーナリズムの世界に入った頃のあれこれを書く。この世界に入ったのは1964年。24才の時だ。

日本のモータリゼーションに「灯りが見えてきた頃」とも言っていい。

「軽く1万回転回る!」エンジンで世界を驚かせたホンダS600が誕生し、日本GP ではスカイラインGTが(たった1ラップだけだったが)ポルシェ904の前を走ったのが1964年。翌65年には、美しい肢体と洗練された走りの日産シルビアが。そして66年になると、カローラ、サニーが相次いで誕生。日本のモータリゼーションは一気に加速し始めた。

50年代、多くの日本人にとって、クルマを持つことは夢の話であり、実感を持って未来を見ていた人はごく限られていたはずだ。

日本の自動車生産台数を調べてみると、1960年は48万台に過ぎない。が、1967年は315万台。たった7年でアメリカに次ぐ世界2位の自動車生産国に上り詰めている。

そう、僕はこんなすごいタイミングで自動車ジャーナリストの世界に足を踏み入れた。
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まずは自動車専門誌「ドライバー」の編集部に入った。東京駅八重洲口に近い編集部の立地は文句なしだったが、建物は「鰻の寝床」状態の古く狭い2階建て。床も傾いでいた。

父の知り合いだった主婦と生活社の役員に編集長を紹介され、面接に行った。会ったのは編集部に近い喫茶店だった。

編集長はお酒好きと聞いていた。ので、当時、高級ウィスキーの代名詞的存在だった「ジョニ黒」こと、ジョニーウォーカーの黒ラベルを手土産にした。

編集長は楽しい方で、話は弾み、30分くらいで入社は決まった。別れ際に「しごくから覚悟しておいてくれ!」と言われた。

ちなみに、その時点ですでにフジテレビの内定が出ており、周りはみんな僕がテレビマンになるものと思い込んでいた。

テレビは当時の花形業種。それを蹴って得体の知れない自動車雑誌に入るなんて、みんな首を傾げるばかりだった。

でも、家内(学生結婚で…念のため)は理解してくれた。「やりたいことをやるのがいちばんよ!」と言ってくれた。

僕は編集経験ゼロの新人だが、クルマの知識と経験は誰にも負けない自負はあった。そんな僕に、編集長は入社直後から膨大なページの取材と原稿を回してきた。

月の半分は取材で駆け回り、残りの半分は数百枚(400字)の原稿書きに追われた。朝帰りも常態化。「しごくぞ」と編集長に言われたことを思い出しながら仕事に没頭する日々だった。

全開スタートだった。きついと感じる間もなく、「まあ、こんなものなんだろう」と思えてしまったのはラッキーだったかもしれない。
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「ドライバー」誌にいたのは3年半ほど。その後フリーランスになったが、3年半フル回転していたお陰で、メディア業界にも、自動車業界にも太いパイプができていた。

日本のモータリゼーションは急発展し、それと並行して自動車業界も自動車関係メディアも拡大の一途を辿った。そんな時期だった。

フリーランスになった僕の元には、あっという間に膨大な仕事が舞い込んできた。自動車専門誌はもちろん、一般月刊誌、週刊誌、新聞、放送、大手広告代理店まで。驚いた。

でもドライバー誌で鍛えられた僕には、それをこなす力がついていた。メディアが違えば視点も書き方も変わる。柔軟性が求められる。だが、そうしたところにもすぐ対応できた。収入もどんどん増えていった。

当時、僕は家内の親と一緒に住んでいた。金銭的には楽だったが、1日も早く独立したいと考えていた。そして、計画を立てた。

マンションを借りて独立する計画だ。それも身の丈を超えた高額な家賃のものを借りる。そうすることで自分に鞭を入れ、力づくで引っ張り上げようと、そんな計画だった。

「こんな家賃払えるの?」と家内は心配したが、「その分ガンガン働くから絶対大丈夫。約束する!」と説得した。

快適な環境の快適なマンションは、確かに身分不相応だったが、やる気は出た! 猛烈に働いた。その結果、収入が増えただけではなく、仕事の範囲もどんどん拡がっていった。

その中にはメーカーの仕事も含まれる。開発、デザイン、マーケティング等々のアドバイザーということだ。それは、日本のメーカーだけでなく、 海外のメーカーにも及んだ。

その辺りのことについては改めて書くが、「快適な家に住んで、好きなクルマに乗る」という、単純且つ明快な目標の立て方は間違っていなかったと思う。

もちろん、時代の波も加勢してくれたし、素晴らしい人たちに巡り会えたという大きなツキもあった。ツキはとても大事なことだ。

でも、ツキは生かさなければなんにもならない。ツキを生かすも殺すも自分次第。僕はツキをものにするため懸命に走ったが、走った後の汗と疲れを不快に思ったことはなかった。

新人の頃の懸命ぶり、ガムシャラぶりを振り返ると、自分でもよくやったと思う。そんな下敷きがあったからこそ、大好きなクルマと共に楽しい人生を送ってこられたんだと思う。頑張った僕に拍手、常にサポートし続けてくれた家内に感謝!!
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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