機械式時計もマスプロダクションの一種だが、なかには少数しか制作されない"工芸品"のような時計がある。
エナメルや彫金などの芸術的技法を凝らした時計は、ふたつとして同じものがないレア・ピースであると同時に失われつつある伝統的な時計作りの文化を未来へと受け継ぐという特別な価値をもっている。
つまり"工芸品のような時計"を所有するということは、時計文化に対するパトロネージということになる。
Hermès[エルメス]
立体感と奥行きによって美しい表情を作る
械式時計の歴史とは、“工芸品”としての歴史だった。工芸品とは、美術意匠と技巧によって美観を与えると同時に日常生活にも役立つ物を指す。そこが用途をもたない芸術品との違いであり、携帯できる機械式時計が生まれた16世紀頃から、他者との差別化を進める目的もあって、時計に美しい装飾を施すようになる。
工芸技法のなかでもっとも有名なのは「エナメル」だろう。最盛期は19世紀で、懐中時計の風防カバーやケースへの装飾技法として好まれた。ところが腕時計の時代になると、風防カバーもなく裏蓋は腕に隠れてしまうので、装飾を施す場所がなくなってしまった。ニーズがなければ、技術も廃れる。こうして長らく工芸技法は、表舞台から姿を消してしまうのだった。
幸運にも多くの名門ブランドでは、スペシャルオーダーなどのおかげで細々とではあったが技術は残っていた。そこでベテランが若手を教育することでノウハウを受け継ぎ、過去の伝統技法を復活させようと躍起になっている。
残念ながら、まだまだ圧倒的に職人の数が足りず、ごく少量の時計しか製造はできないが、続けていかない限り未来は開けない。つまり工芸品のような時計を手に入れるということは、一種の文化支援なのである。
手がけたのは、特別な職人たち
手がけたのは、特別な職人たち
エナメル技法という文字盤上の絵画
手法もかなり細分化されており、美的表現の自由度も高い。
華やかな色彩や繊細な表現が可能であり、ダイヤルを美しく演出してくれるのだ。
Ulysse Nardin[ユリス・ナルダン]
エナメルの名門らしい凝ったデザイン
一色ごとに窯で焼き上げるので手間がかかるうえに、焼く際の温度調整に失敗すると簡単に割れてしまうという制作上の難点がある。しかし完璧なエナメル工芸は強靭であり、数千年レベルで劣化しない。そのためいつまでも、美しさを保つことができるのだ。
Van Cleef & Arpels[ヴァン クリーフ&アーペル]
詩的な世界をエナメルで見事に表現
文/篠田哲生