誰もが平和を望んでいた時代。チェンバレンらの宥和政策に異を唱え、戦争屋と罵られていたオヤジがウィンストン・チャーチル(64)だった。しかし、チャーチルは確かな情報筋からドイツの再軍備化情報を入手していた。ヒトラーの正体を見抜き、反共、反ナチスの立場でボールドウィン内閣やチェンバレン内閣の宥和政策を非難したのだ。それが的中した。ドイツはミュンヘン会談の合意を完全に踏みにじり、チェコスロバキアを併合すると1939年にポーランドに侵攻する。時代は風雲急を告げ始めた。9月1日、遂に戦争のラッパが鳴り響いた。英仏はドイツに宣戦布告。チェンバレンはすぐにチャーチルを海相に入閣させると、海軍は「ウィンストンが戻ってきた!」と艦隊に発信した。というのも、第一次世界大戦の時も海軍大臣はチャーチルだったのだ。チャーチルの生涯を写真で紹介した洋書『CHURCHILL His Life in Photograhs』(Edited by Randolph S. Churchill & Helmut Gernsheim RINEHART 1955)を見ると、この時を境にチャーチルの顔に精気が蘇っているのがわかる。
1938年9月29日、4人のオヤジがドイツのミュンヘンに集まって会議を開いた。メンバーは、イギリスのチェンバレン(69)、イタリアのムッソリーニ(55)、フランスのダラディエ(54)、ドイツのヒトラー(49)。ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロバキアのズデーテン地方のドイツ帰属を主張するヒトラーに対して、周辺国の首脳がヒトラーの元に集まって国際会議をおこない協定を結んだ「ミュンヘン会談」である。

4人のオヤジの中で一番年長のチェンバレンは、第一次世界大戦による甚大な被害の反省と恐怖からナチス・ドイツに対して宥和政策をとり、戦争を回避したいと考えていた。一方、第一次世界大戦の敗戦国であり歳も一番若いドイツのヒトラーは攻撃的にならざるをえない事情を抱えていた。というのは、戦勝国からの報復に等しい「ヴェルサイユ条約」によってドイツは天文学的な賠償金の支払いを抱え、ヒト、モノ、カネ、プライド、すべてをズタズタにされもはや失うものは何もないドン底にあった。だったら、いっそのこと好戦的に勝負に出た方が得策だと考えた。結局、この会談はヒトラーの要求を丸飲みして終わる。チェンバレンとダラティエはヒトラーに対し「もうこれ以上、領土要求はしない」との約束を取り付けるのが精一杯だった。チェコスロバキアの代表に至っては、参加することさえ許されなかった。
写真:アフロ
ウッドストックの「ブレナム宮殿」に生まれる。幼少時代にハーロー校で
厳格な教育を受け、サンドハーストを3回受験してようやく合格した。
ハーロー校入学自体が校長の特別な計らいだったといわれる。
1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相として
イギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。
2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
1987年、ブレナム宮殿は世界遺産に登録された。
誰もが平和を望んでいた時代。チェンバレンらの宥和政策に異を唱え、戦争屋と罵られていたオヤジがウィンストン・チャーチル(64)だった。しかし、チャーチルは確かな情報筋からドイツの再軍備化情報を入手していた。ヒトラーの正体を見抜き、反共、反ナチスの立場でボールドウィン内閣やチェンバレン内閣の宥和政策を非難したのだ。それが的中した。ドイツはミュンヘン会談の合意を完全に踏みにじり、チェコスロバキアを併合すると1939年にポーランドに侵攻する。時代は風雲急を告げ始めた。9月1日、遂に戦争のラッパが鳴り響いた。英仏はドイツに宣戦布告。チェンバレンはすぐにチャーチルを海相に入閣させると、海軍は「ウィンストンが戻ってきた!」と艦隊に発信した。というのも、第一次世界大戦の時も海軍大臣はチャーチルだったのだ。チャーチルの生涯を写真で紹介した洋書『CHURCHILL His Life in Photograhs』(Edited by Randolph S. Churchill & Helmut Gernsheim RINEHART 1955)を見ると、この時を境にチャーチルの顔に精気が蘇っているのがわかる。
翌40年、チェンバレンの後任としてチャーチルは首相に任命される。葉巻の煙をくゆらせながら、その日をこう述懐する。『5月10日の夜、私は一国の首相として権力を握った。遂に私は全省に命令を発する権力を握ったのである。私は運命と共に歩いているように感じた。そして過去の生活は、ただこの時、この試練の為の準備に過ぎなかったように感じた』長い不遇の時も過ごしたが、いつしか時代の歯車は、チャーチルを軸にして回り始めたようである。
チャーチルは勝利への執念で国民を鼓舞し続けた。『私が皆さんに与えられるものは、血、苦労、涙と汗だけであります。しかし、我々の政策が何であるかと尋ねるならば、私はこう答えたい。それは、陸、海、空で全力をあげ力の限りを尽くして戦うことであります。我々の目的が何であるかと尋ねられるならば、私は一言で答えることができる。勝利!あらゆる犠牲を払っても勝つこと。あらゆる辛苦に耐えても勝つこと。いかに長く苦しい道のりであろうとも戦い抜き、勝ち抜くこと。これであります』45年9月2日、イギリスは国民の戦争協力によって第二次世界大戦を勝利した。そして、この時の有名な演説以降、チャーチルの有名なVサインがさまざまな場面で見られるようになるのである。
当初、イギリスの敵はドイツ一国だった。まだ、イタリアも日本も参戦していなかった。あてにしていたフランスはドイツにあっさり降伏してしまった。イギリス本土空爆が失敗に終わるとドイツはソ連を攻撃し始めた。これによって望外のソ連がイギリスの味方になった。チャーチルにとって最大の戦時同盟国アメリカは、日本がアメリカを攻撃したことにより得られた…。即ち、勝利の要因はすべて敵の行動からもたらされているのである。そして、敵のヒトラーは自分達が科した報復「ヴェルサイユ条約」から誕生した…。イギリスの勝利に一番貢献したのはチャーチルだったが、勝利の時に首相だったのはクレメント・アトリーだった…。ホント、歴史は皮肉に満ち溢れていますね。
でも、でもですよ。2002年にBBCが放送した「偉大な英国人」投票での第1位はやっぱりチャーチルでした。葉巻をくわえ、威風堂々としたチャーチルの雄姿はイギリス国民にとって、いや世界のシガーオヤジにとってヒーローなんですね!
では、また来週。