1917年、ニューヨーク。ブルックリン区の最南端に「ハーバード・イン」という名のバーがあった。6メートルの長さを誇るマホガニーのカウンターがあって、ダンスホールを併設していた。流行りのカレッジ・インを真似ているのだろうが、経営者は小学校すらろくに出ていない口で知的な雰囲気は皆無。獰猛な獅子のような面構えの男で、本名はフランチェスコ・イオエーレ。これをアメリカ風に改名してフランキー・イェールといった。イェールだのハーバードだのと、縁もゆかりもないアイビーリーグの名前を勝手につけた胡散臭い店なのだが、意外にもこれが繁盛していた。バーカウンターの内側では18歳の少年が忙しく働いており、夜の酒場で人気者だったという。この陽気なイタリア系の少年こそ、アルフォンソ・カポネ。世界一有名なギャングスター、アル・カポネが若かりし頃の話である。 ナイフ事件は、このバーで起きたいわば地元のチンピラ同士の喧嘩である。客としてやってきたフランク・ガルチョという男の連れの女にアルがちょっかいを出し、卑猥な言葉を吐いたのだ。激怒したガルチョがナイフでアルの左頬を大きく切り裂いた。アルが護身用にベルトに挟んだ38口径を引き抜いた時にはガルチョはすでに逃亡していた。頬に三本の傷が大きく斜めに走り、30針以上縫う大けがとなったが、ファミリーのボス同士の話し合いはアルが悪いという結論だった。理由はその女がガルチョの妹だったからである。裏世界の掟でファミリーの侮辱は許されるものではない。アルがガルチョに謝罪して幕引きとなった。喧嘩早い少年は窓ガラスに映る自分の顔を眺め、悔し涙を流した。 写真:Ullstein Bild/アフロ
しかし、この事件以降その派手な傷跡は勲章となる。ブルックリン中を徘徊して借金の取り立ての仕事を任されるようになったのだ。18歳にして“スカーフェイス(向こう傷)のアル・カポネ”と恐れられた。もう深夜のモップがけは免除である。かわりに営業時間が終わるとカウンターで帳簿に向かうことになった。アルは数字が苦手ではなかった。しかし、胸中は複雑である。裏稼業の出世を喜んでいいのか、悲しんでいいのか。母親が誰よりも悲しんだ。息子の醜い傷跡を見ては泣き出す始末。それがアルには心底辛かった。チンピラなんかに一目置かれ、敬語を使われること自体も複雑な気持ちだった。それは、もうこの世界で後戻りできないところまで来てしまっていることを意味していた。「俺はこのまま裏稼業に生きてよいのか。だが、顔の傷は消しようがない」。 1918年、アルはメエとの結婚を機に人生の出直しを決意する。堅気になると誓ったのだ。ずんぐりむっくりした色黒に禿げ頭、隠しようのない貧乏、小学校すら出ていない自分。反白人と呼ばれアメリカ社会の底辺に生きるイタリア系のアルにとって、アイルランド系のメエは己に欠落しているものを全て兼ね備え、頭上に君臨する存在といえた。すらりとした色白で金髪、瀟洒な一戸建てに暮らし、きちんと学校も出ている。メエは知性であり、良識であり、美徳だった。アルは顔の傷は戦争で受けたなどと適当なことをいって簿記係の仕事にありついた。もともと頭は悪くない。家族三人でボルティモアに引っ越した。ところがそんな幸福も束の間、1920年に父ガブリエーレが亡くなった。 これを機にジョニーとフランキーとの付き合いを開始する。アルはシカゴに移り住んだ。犯罪の世界へ逆戻りである。ちょうどこの時「米国憲法修正第18条」、いわゆる禁酒法(1920~1933)が施行された。この法律で米国内ではアルコールの製造、販売、輸送が禁止された。しかし、所有や飲むこと自体は禁止されなかったため、酒の密輸、密造が栄えた。そこで暗躍したのがギャングであり、禁酒法が生み出す巨万の富を事前に察知し、ギャング同士の抗争が起きないように縄張りを決め、あらかじめマフィア同士の協定まで取り付けた千里眼の男こそ、ジョニー・トゥーリオだった。ジョニーは禁酒法で儲けるためにアルを必要とし、シカゴへ呼び寄せたのだ。 アルは暗黒街の顔役となった。裏のシカゴ市長とも呼ばれた。レキシントンホテルに住み、防弾仕様の特注キャデラック。スーツも極上の仕立てもののみ。真っ白のボルサリーノ。いつも気前よくチップをはずんだ。三下のときは紙巻きだったが、今では葉巻である。しかし職業柄かよく癇癪玉を破裂させては子供の腕ほどもあるような大きな葉巻を一口だけ吸っては、怒りにまかせて床に投げつけたり、踵で踏みつぶしたりしたことも多かった。そんなふうだったが、こいつは大物になるなと思わせるようなところもあった。 いつからかアルは使いっ走りの男を雇うようになっていた。指で合図をしては葉巻の箱を持ってこさせた。男が小走りに走ってアルに両手で革張りの小箱を差し出す。蓋を開くとキューバ産の葉巻が並んでいた。アルは一本選んで端を噛みちぎった。男に火を点けさせると、アルはふうっと煙をゆっくり吐き出した。なんと、使いっ走りの男とはガルチョ、スカーフェイスの傷を作った帳本人だったのだ。 では、また来週。
広見護(ひろみ・まもる)
90年にソムリエ資格を取得後、単身キューバへ。銀座のフレンチレストラン在職中の97年、日本で初めて葉巻の書を著す。その後、外資系商社にてシガービジネスに携わり、06年から独自にシガーの輸入販売を開始。07年にはオリジナルシガーのブランドを立ち上げ、08年直営シガーバーをオープン。葉巻を吸い、書き、つくる、マルチプレーヤー。葉巻歴20年。
HIROMI ENTERPRISE HP
1917年、ニューヨーク。ブルックリン区の最南端に「ハーバード・イン」という名のバーがあった。6メートルの長さを誇るマホガニーのカウンターがあって、ダンスホールを併設していた。流行りのカレッジ・インを真似ているのだろうが、経営者は小学校すらろくに出ていない口で知的な雰囲気は皆無。獰猛な獅子のような面構えの男で、本名はフランチェスコ・イオエーレ。これをアメリカ風に改名してフランキー・イェールといった。イェールだのハーバードだのと、縁もゆかりもないアイビーリーグの名前を勝手につけた胡散臭い店なのだが、意外にもこれが繁盛していた。バーカウンターの内側では18歳の少年が忙しく働いており、夜の酒場で人気者だったという。この陽気なイタリア系の少年こそ、アルフォンソ・カポネ。世界一有名なギャングスター、アル・カポネが若かりし頃の話である。

ナイフ事件は、このバーで起きたいわば地元のチンピラ同士の喧嘩である。客としてやってきたフランク・ガルチョという男の連れの女にアルがちょっかいを出し、卑猥な言葉を吐いたのだ。激怒したガルチョがナイフでアルの左頬を大きく切り裂いた。アルが護身用にベルトに挟んだ38口径を引き抜いた時にはガルチョはすでに逃亡していた。頬に三本の傷が大きく斜めに走り、30針以上縫う大けがとなったが、ファミリーのボス同士の話し合いはアルが悪いという結論だった。理由はその女がガルチョの妹だったからである。裏世界の掟でファミリーの侮辱は許されるものではない。アルがガルチョに謝罪して幕引きとなった。喧嘩早い少年は窓ガラスに映る自分の顔を眺め、悔し涙を流した。
写真:Ullstein Bild/アフロ
通称アル・カポネ。アメリカ、シカゴの暗黒街のボス。
縦縞のスーツ、純白のボルサリーノ。くわえた葉巻。トミーガン。
アル・カポネのスタイルこそギャングのアイコンだろう。
イタリアのナポリから来た移民の子としてニューヨークに生まれる。
18歳の不良はジョニー・トゥーリオの紹介で出会った
フランキー・イェールに認められ暗黒街へ。21歳で父が亡くなり
家族を養うためシカゴへ。26歳トゥーリオの引退にともない
シマを譲られ組織のトップとなる。1931年エリオット・ネス率いる
アンタッチャブルに脱税で告発され裁判が始まる。判決は懲役11年。
クック郡刑務所へ入れられるがレキシントンホテルと変わらない
豪華な生活を送っていた。1932年アルカトラズ刑務所へ、囚人85号となる。
1947年死亡、ニューヨーク・タイムズ誌は「悪夢の終わり」と報じた。
しかし、この事件以降その派手な傷跡は勲章となる。ブルックリン中を徘徊して借金の取り立ての仕事を任されるようになったのだ。18歳にして“スカーフェイス(向こう傷)のアル・カポネ”と恐れられた。もう深夜のモップがけは免除である。かわりに営業時間が終わるとカウンターで帳簿に向かうことになった。アルは数字が苦手ではなかった。しかし、胸中は複雑である。裏稼業の出世を喜んでいいのか、悲しんでいいのか。母親が誰よりも悲しんだ。息子の醜い傷跡を見ては泣き出す始末。それがアルには心底辛かった。チンピラなんかに一目置かれ、敬語を使われること自体も複雑な気持ちだった。それは、もうこの世界で後戻りできないところまで来てしまっていることを意味していた。「俺はこのまま裏稼業に生きてよいのか。だが、顔の傷は消しようがない」。
1918年、アルはメエとの結婚を機に人生の出直しを決意する。堅気になると誓ったのだ。ずんぐりむっくりした色黒に禿げ頭、隠しようのない貧乏、小学校すら出ていない自分。反白人と呼ばれアメリカ社会の底辺に生きるイタリア系のアルにとって、アイルランド系のメエは己に欠落しているものを全て兼ね備え、頭上に君臨する存在といえた。すらりとした色白で金髪、瀟洒な一戸建てに暮らし、きちんと学校も出ている。メエは知性であり、良識であり、美徳だった。アルは顔の傷は戦争で受けたなどと適当なことをいって簿記係の仕事にありついた。もともと頭は悪くない。家族三人でボルティモアに引っ越した。ところがそんな幸福も束の間、1920年に父ガブリエーレが亡くなった。
これを機にジョニーとフランキーとの付き合いを開始する。アルはシカゴに移り住んだ。犯罪の世界へ逆戻りである。ちょうどこの時「米国憲法修正第18条」、いわゆる禁酒法(1920~1933)が施行された。この法律で米国内ではアルコールの製造、販売、輸送が禁止された。しかし、所有や飲むこと自体は禁止されなかったため、酒の密輸、密造が栄えた。そこで暗躍したのがギャングであり、禁酒法が生み出す巨万の富を事前に察知し、ギャング同士の抗争が起きないように縄張りを決め、あらかじめマフィア同士の協定まで取り付けた千里眼の男こそ、ジョニー・トゥーリオだった。ジョニーは禁酒法で儲けるためにアルを必要とし、シカゴへ呼び寄せたのだ。
アルは暗黒街の顔役となった。裏のシカゴ市長とも呼ばれた。レキシントンホテルに住み、防弾仕様の特注キャデラック。スーツも極上の仕立てもののみ。真っ白のボルサリーノ。いつも気前よくチップをはずんだ。三下のときは紙巻きだったが、今では葉巻である。しかし職業柄かよく癇癪玉を破裂させては子供の腕ほどもあるような大きな葉巻を一口だけ吸っては、怒りにまかせて床に投げつけたり、踵で踏みつぶしたりしたことも多かった。そんなふうだったが、こいつは大物になるなと思わせるようなところもあった。
いつからかアルは使いっ走りの男を雇うようになっていた。指で合図をしては葉巻の箱を持ってこさせた。男が小走りに走ってアルに両手で革張りの小箱を差し出す。蓋を開くとキューバ産の葉巻が並んでいた。アルは一本選んで端を噛みちぎった。男に火を点けさせると、アルはふうっと煙をゆっくり吐き出した。なんと、使いっ走りの男とはガルチョ、スカーフェイスの傷を作った帳本人だったのだ。
では、また来週。